スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

偽善者の南京ビジネス

当ブログの主旨に賛同する方は最初、クリックお願いします。
豚のダンス 


偽善者の南京ビジネス

12月13日、シナ当局は、いつも通りに「南京虐殺」の記念活動を行った。三十年前、シナ人は誰もその30万人が「虐殺」されたと聞いたことがない。現在シナのメディアで頻繁に登場する「大虐殺」の「証人」であるシナ人、日本人も八十年代前は、まるで世の中に存在していなかったようだ。シナ共産党政府はまるで認知症の老人のようで、近い時間の事より遠い昔の事をしっかり覚えている。

洗脳されたシナ人の若者は、日本軍の残虐な犯罪を一方的に信じ込んでいるが、2009年にウルムチで発生したウイグル人の虐殺をまったく気にしていない。1989年に天安門事件で亡くなった人々の母親達は、当局に逮捕される危険を冒して、公平、正義を求めているが、彼女達を助けてあげようとするシナ人は多くない。1959年と1989年のチベット大虐殺のことを、シナ人民共和国で生まれた人は殆ど知らない。なぜ問題だらけの「南京大嘘」のみ、この二十年の間にシナのメディアで大きく取り上げられ、トラマ、映画が次々に製作、公開されているのか?少しでも頭脳が働く人は、そのような不思議な現象に首をかしげるだろう。南京大虐殺肯定派の日本人は、本当に少しの思考能力すら持っていないのか?

 シナ共産党にとって、「南京虐殺」の嘘を続ければ、日本人を仮想敵とし、また、日本人の子々孫々を脅迫、恐喝する武器として利用できる。シナ国内では、シナ人の民族主義を刺激し、シナ人民の不満のはけ口として使う。さらに、日本の反日サヨクは戦争否定、人々への平和教育の教材として必要、アメリカが世界大戦中に日本で起こした残虐、非道な戦争犯罪の滅罪するために、そのような嘘が必要。これらの様々な要素が、この世紀の大嘘を日本中、世界中に蔓延させた。沢山の人々は、この南京大嘘が拡がることによって名誉、利益を獲得することもできた。

世紀の大嘘南京大虐殺はいったいどのくらいの人々を儲けさせたのか?シナ系アメリカ人アイリス・チャンがその一人、しかし彼女は儲けたお金をまだ使いきれない内、突然死んだ。また、あの東史郎が死んでから、シナ当局は南京大嘘の新しい日本人宣伝員を何人も見つけた。松岡環という小学校の教師は、シナテレビ局に頻繁に出演し、南京大嘘に関する本を、シナと日本で出版し儲けている。

さらに最近、大東仁という名前の坊主は、シナ当局の南京大嘘のプロパガンダに積極的に協力している。反戦、平和を唱えている大東仁は同じ仏門子弟であるチベット人がシナ軍に虐殺されることをいったいどのように見ているのか、私は非常に興味を持っている。しかし、彼は多分何も意見を述べないだろう。シナでは公衆の場でチベット大虐殺の話を口に出すだけで、当局に連行されるだろうから。日本で知名度が低い漫画家石川好も、わざわざシナの反日教育基地である南京嘘館で戦争、平和を題材する漫画展を開催した。この人はシナ軍のチベット大虐殺、ウイグル虐殺、天安門大虐殺にはなぜ興味がないのか?

だから、このような自称平和使者、正義の味方の日本人は、ただシナ共産党に買収され、南京ビジネスで名利を取ろうとしているだけ。正義?平和?笑止千万。

全体主義の独裁国家シナでは、シナ共産党は一切の資源をコントロールしている。人々に言論の自由すらないのだから、どのような「証言」「証拠」も信用できない。南京ビジネスで稼いでいる卑劣な日本人は、本当に民主自由の日本国に感謝しているだろう。彼らがいくら汚い手で汚れているお金を手にしても、日本国は言論の自由を保障し、彼らと彼らの家族の生命、財産の安全を脅していない。

 シナならばどうであろうか?天安門事件で子供を虐殺された母親達は、二十一年の間、ほぼ毎日シナ当局の警察に監視されている。長い間、虐殺された子供の墓参りすらも許されない、何か不審な行動と思われたら、すぐ逮捕、拷問される可能性がある。チベット、ウイグルで虐殺されたチベット人、ウイグル人の遺族は、声を出す自由もない。この国で「南京大虐殺」だけが真実?笑止千万。




南京大虐殺は二十世紀最大の大嘘だと思う方は、クリックよろしくお願いします。

戦争論2FC2 BLOG LOGO        豚の微笑み


テーマ : サヨク・在日・プロ市民
ジャンル : 政治・経済

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

シナ当局って

無駄なことに時間を使ってるんだね。
よく監視の人員が居るね。

南京虐殺?
腐った民族の腐った死体なんて誰が見たいか。
うぬぼれるなよ糞シナ。

日本サヨクは死滅しろ

日本のサヨクは誇らしげに平和だ人権だとほざいて権利を主張し続けるゴミであり ただの内弁慶のキチガイだ

皆さんにもこちらの動画を見ていただきたい

参考動画
【夫婦別姓導入?】第三次男女共同参画計画・閣議決定の行方[桜H22/12/14]
http://www.youtube.com/watch?v=aPPO6CnS3sE&sns=em

この話で出てくる国連の女子差別撤廃委員会からの日本への勧告とやらは日本の反日サヨクの主張と全く同じなのだ
何故このような事になっているかというと日本の数々のNGOなどと称したサヨクが委員会にしつこく色々吹き込んでいるのだ
つくづく呆れてしまう


日本のような安全で人権を守っている国で日本を叩いてる暇があるなら支那に行って支那共産党を批判でもしてこいよ? できないよなぁお前らでは
所詮は反日勢力の犬で似非なんだよ
少なくとも支那で本気で民主化活動をやってるやつは命がけだよ

中国も韓国もサヨク日本人も、自分たちの行いを人に擦りつけることしかできないゲスだと思う。
南京なんて当時の状況をじっくり考えれば突っ込みどころ満載だしね。

反日左撒きの特徴ですね。

相対的な判断が出来ないのは・・・

No title

【緊急開催 誰が日本を守るのか!? 日本の防衛を大いに語る夕べ in 練馬】


http://members3.jcom.home.ne.jp/takaaki.mitsuhashi/1219Boei.pdf

日 時:平成22年12月19日(日) 17時30分開場、18時開会
会 場:練馬区役所本庁舎20階 『交流会場』
練馬区豊玉北6丁目12番1号 ℡ 03-3993-1111(代)

プログラム
●ゲストスピーチ 元防衛大臣・自民党総務会長 小池ゆりこ
練馬区防衛協会 会長 村上えつえ
●講演①『愛国政権を熱望する!』入間航友会 会長 荻野 光男
●講演②『領土問題の現状と今後の課題』
北方領土元島民(歯舞群島出身) 児玉 泰子
●ゲスト・講師の皆様とご来場の皆様との意見交換会
~日本の防衛を大いに語る夕べ in 練馬~

No title

支那豚さん、いつも貴重な情報と、日本人では中々気がつかない切り口からのブログありがとう。少しでも、みんなに気がついて欲しいから、このブログのネタをたまに友達にも話しています。

今朝の産経に大東って人が、南京で虐殺の証拠を見つけた記事が出ていましたが、また嘘だろうと思いつつも、・・どう判断して良いか・・迷っていました。なんだ、大東さんは支那の協力員の方でしたか。だったら、職業、僧侶(実は工作員の疑い濃し)と書いて欲しいものです。
あの新聞を見た善良な日本の人は、「お坊さんが見つけた証拠だから、本当だろう」なんて信じかねません。

No title

反日サヨクは朝鮮系なので日本人が貶められるのが大好きなのでどうしようもないです。
そろそろまともな日本人には反日やってるのは日本人ではないことに気がついてほしい。
日本人もどきの朝鮮人、シナ人、そしてカルト宗教に洗脳された日本人なのです。
私達は知らずして民族対立に巻き込まれていることに気づいてほしい。

中国人が知らないこと

中国人は通州事件なんて、きっと全然知らないのでしょうね。
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1025.html
この事件の写真が南京大虐殺の証拠写真として使われていると聞きます。
よくそのような悪知恵が働くものだ。
中韓のねつ造パクリ大好きには歴史があるのですね。
天安門事件の写真を見たあと、
挽肉になった遺体は直ぐに片つけてもらったか気になった。
カラスや野良犬に喰われたらあんまりだ。
http://www.youtube.com/watch?v=xJlloj5Xams
お墓に何を入れただろう。残った腕や足ですか。
せめて墓参りくらいさせてあげて欲しい。
人は墓参りなどをすることによって、
親しい人がもういないことを確認する。
墓参りをしないと、ずっと待ち続けてしまうではないか。
残された人の人生はどうなる。
そんなことを思いやれる社会なら、あんな事件は起きないか。

No title

南京大虐殺も作り話

南京戦に参加した数万の日本軍将兵も、取材にあたった約120人の新聞、雑誌社の特派 員やカメラマン、その他占領直後、南京に入城した西条八十、草野心平、大宅壮一、小林 秀雄、野依秀一、杉山平助、林芙美子、石川達三といった著名な詩人、評論家、作家だれ 一人として見たこともなく、噂すら聞いたこともない事件であります。 しかも日本人だけではなく、国際都市南京は、占領後も残留民、第3国人50名以上もおり、 揚子江には米英の艦隊がおり、ニューヨーク・タイムズ、シカゴ・トリビューンA・Pの特派員、 パラマウントのカメラマン等、外人記者5名もいたのですが、誰も大虐殺など見ていないし、 南京大虐殺などというような記事は、どこにも流布されていない。 (参照『南京事件の総括 虐殺否定の15の論拠』謙光社 田中正明著) (参照『真説南京攻防戦』近代文藝社 前川三郎)

No title

日中戦争犠牲者数の偽装・工作
終戦時    130万人  GHQ発表
終戦時    130万人  国民党発表
1948年    438万人  国民党政府報告書
1950年代   1000万人  共産党政権発表
1970年    1800万人  共産党政権発表
1985年    2100万人  共産党政権発表(抗日勝利40周年)
1998年    3500万人  江沢民発表     
2005年    5000万人  卞修躍博士発表(抗日勝利60周年)
2010年 ?
支那発表の日中戦争犠牲者数は60年で130万→5000万。 よって平均増加率は年間約6.3%増。この増加率が維持されたとすると、1億人突破は2017年頃、

No title

石川好はそれほど無名の人ではありません。
昔は朝生の常連でしたし、衆議院選挙に出て落選し、その後は秋田でなんとか言う大学の学長をしていました。
最近、南京大虐殺記念館で、日本の漫画家の展示会を開き賞をもらったと言う記事を見てびっくりしました。
http://duan.jp/news/jp/201009014.htm

日本では、高島伸欣のようにマレーシアやシンガポールまで行って「日本軍はこんなに悪いことをやった」と宣伝して廻れば、高校の先生から国立大学の教授になれますから止められません。

No title

大東仁は、朝日・毎日の捏造報道を鵜呑みにしているようですね。↓
http://www.youtube.com/watch?v=0YBx_YBhyL0

中共は冷徹なプロパガンダ確信犯ですが、彼は哀れな洗脳された工作員です。
日本人としては恥ずかしい限りです。

サヨクは精神病

いやぁ、呆れて吹き出してしまいました。サヨクはね、あれ、「自己暗示」の世界を生きてますね。尖閣で漁船が突っ込んで、韓国が砲撃され、なのにまだ「国外移設」とか言っている。で、沖縄が砲撃でもされれば、「補償しろ」って政府に迫るんですよ。
あの連中は、考えていません。習慣なんです。身近にサヨクがいるので良く分かります。通州事件の記事を読ませ、感想を求めましたが、「ウ~ン。」と唸り首傾げ、「へぇ~っ。」と言って終わりでした(笑)。サヨクの読み物以外は全て頭から弾かれてしまうようです。あれは、一種の病気です。沖縄サヨクの「怒」のプラカード持ったオバサンたちの姿見る度、悲しくなります。
マスコミも悪いのです。真実を報道していません。ウイグルやチベットのことは、どんどん報道すべきです。

No title

永遠に"歴史問題"で叩き続けよ、江沢民1998年8月

江は「-----(戦時中の)支那の死傷者は 3500万人にも上った。戦後も日本の軍国主義はまだ徹底的に清算されていない。--我々はずっと警戒しなければならない」と幹部に虚妄を植え付け。 江沢民の愛国主義教育は、表面的には、日本を 非難する内容ではないが、実態は、種々の虚妄を植え付け、日本 を過去において、支那・支那人に被害と侮蔑を与えた事にする過激反日教育の原点、基点としたものだ。 江が指導者になってから、支那は蛇で日本は農夫の関係です。 支那人てが学校で学習した「農夫与蛇」」の関係です。 農夫(日本)与蛇(中国)。 支那の学校教育における答えは、「蛇は自宅に持ち帰って介護する相手ではない」 「しかし農夫は自宅に持ち帰って介護した。結果、元気になった蛇は農夫の息子に噛み付いて 毒殺してしまった」 支那も支那人も人間扱いする相手では無かったって事だ。 人間扱いすれば、その相手からいずれ殺されるて事だ。

国家に甘えてる駄々っ子

日本の左翼は、この自由な日本という国家に甘えきった存在ですね。
そして、自分の利益や名声のためなら、生まれた国家すら売っても
かまわない卑劣さ、最悪な連中です。

自分の頭で考えることが大事ですね

日本人の南京虐殺ばかり話題になるけど、支那人はその戦争で日本人達に虐殺行為をしていないのか。他の国は、戦争で人を殺していないのか。

支那の国家的虐殺は凄まじい物がありますね。特に密室での虐殺行為が。
拷問を受けた人の姿が、ネットで写真付きで出回っていますが、それでも死なないとなると、もう一度拉致して息の根を止める。家族が臨終に立ち合うこともできない。

支那は、ただ一部の名ばかり共産党エリート達の既得権益を守るためだけの国家。そのために大多数の人々は、精神的に肉体的に迫害される、中世の国のような体質。近代国家とは、とても言えない国。

支那豚さんへ

禁止キーワードがあって書き込めないんですが、どうしたらいいでしょうか?
罵倒や中傷の言葉は一切使わずに情報をレスしようと思ったのですが
書き込めません。

No title

漫画チベットの民族浄化

http://www.geocities.jp/my_souko/index.htm

管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます

No title

南京事件を元に金儲けをする拝金主義者が存在する限り南京大虐殺を肯定する日本人も後を絶たないのも悲しい事実ですね。

何十年も前の数代前の人々が犯したかも?しれない事件を世代が代わった私達や、この後の世代の人々が何時までも贖罪意識を持つ事も可笑しな話である。

私はたとえ虐殺が事実であっても贖罪意識は持ちません。それは戦争の中で起きた悲しい事件であったとの認識しか持っていません。
そして広島、長崎の原爆投下に関しても悲しい事実であったかもしれませんが、強い被害者意識や禍根は持っていません。戦争とはそういうものであり、今を生きる者は過去を顧みて反省し禍根を残さずに良き未来を作らなければならないと思います。

たとえ仮に大虐殺があったにせよ、過去を反省し禍根を残さずに良き未来を築いていく努力する事の方が双方にとって利に叶う事と勝手に思うが、現実において中国は一方的に恨みを増幅させる事により、日本の反感を増す結果となっている。

わざわざ災の火種を作ったり煽ったりと、今の中国の行動は日本人の私には理解できないが彼らにとっては道理にかなった行動なのだろう。

今は大虐殺を煽る事で利益を得ているのかもしれないが、いずれはその事が自らの災禍の元となってその身を害する事になる気がします。

最後には「巧詐不如拙誠」となるでしょう。

No title

支那豚さん、こんにちは。
今や南京大虐殺なるものが大嘘である事が広く知られるようになってきているにもかかわらず、真実であるかのごとく宣伝する工作員が性懲りも無く出てくる。やはり儲かるからなんでしょうね。
そもそも、南京での虐殺なるものは、国際法に基づかずしかも事後法で裁いた戦勝国によるリンチ裁判として悪名高い、東京裁判(極東国際軍事裁判、1946年~)でも一切問題になっていません。
また当時の南京の人口は20万人でしたが、南京陥落3ヶ月後に実施された戦争被害調査での人口は25万人に増えているのです。

巨神兵をつくる中国、韓国

自国の目先の利益のために歴史を捏造して他国を憎む教育をしている中国と韓国は大きな誤りを犯していることに気付かないのでしょうか。反日感情がいつ自国の政府に向かうか分かりません。

制御がきかない巨大な巨神兵になる可能性があります。一度火がつけば消すことが出来ません。反日デモを利用して反政府活動が一気に広まる可能性があります。

今、中国国内はインフレが増大しています。貧しい人達が生活ができなくなれば政府に不満が向かいます。そんな時に、日本の首相が靖国参拝をしたらどうなるでしょうか。憎しみを植え付けられた中国国民は反日暴動を起こします。そして政府に矛先が向けられます。

国民に憎しみを植え付ける教育は結果的に自分に跳ね返ることを知る必要があります。歴史問題は中国のアキレス腱になります。

No title

支那豚さん、こんにちは。今日の記事も、私にはとても興味深いです。

ただ、反日左翼の中には金儲けを考えている人も多いと思いますが、一番困るのは、自分を権力と戦う正義の人だと思い込み、自分に酔ってしまっている人だと思います。
彼らは、物事の内容が正しいかどうかはよりも、権力に逆らうこと自体の方が重要で、またそれがカッコイイと思っているのでしょう。お金になるかどうかも気にしません。

彼らにとっては、反日活動はたまらないんじゃないでしょうか。自分の国の過ちを正直に訴える、勇気ある人物になれるのですから。それに、中国や韓国からは、大変立派な人物として最大限に持ち上げられるでしょうから、舞い上がってしまうのかもしれません。

彼らは、少数派であることをむしろ誇らしく思うので、大勢に批判されてもなんとも思わないでしょう。彼らを説得するのはとても難しいと思います。それよりも、彼らのような歪んだ人間が増えないように努力していくしかないと思います。

No title

>>くどいと言う前に、初見の人の為に貼り付け 

東京裁判で突如現れた南京大虐殺、一部の日本人とマスコミにより大宣伝 南京占領後9年を過ぎた東京裁判の渦中に、何十万人もの南京大虐殺事件が突然降って湧いた ように現れ、今では事実無根の南京大虐殺が教科書にまでのっているのです。 これはソ連が満州で惨殺した時の写真を日本の

   「 朝 日 新 聞 」

が使って南京大虐殺として宣伝したのに端を発したのです。南京当局が30万人大屠殺記念館を 建設中に、半本氏らの教科書是正グループらが、南京当局へ「止めて下さい」と申し込んだところ、 「 日本社会党の書記の田辺誠氏が二度も頼みに来たので建てるんだ、 30万とは政治的数字だ 」 と答えたので、半本氏はそれを全国の新聞社に報告しましたが、国民新聞(平成元・12・25)だけ が記載したのです。さらに日本の一民間人が同記念館の隣に平和記念館を建設し、その中に 贖罪慰霊碑を置いて日本人観光客一万人に懺悔させようという動きがある。 この計画に元総理大臣までが加わっている(平成6・4・25 国民新聞)というものです。元総理大臣 までこんな愚行を演ずるのは真実を知らぬからでしょう。真実を知らぬということは大変なことです。
http://www2.odn.ne.jp/~ccq47810/syaminntoutosina.html

No title

在日朝鮮人小沢一郎 売国民主党離党か 年内離党で新党設立!
http://2009.itainews.com/archives/2010/12/post-3307.html

No title

 「南京虐殺」はフィクションである。せいぜい「南京事件」とすべきである。「南京大虐殺」は東京裁判をもとにキチガイ朝日新聞が中国共産党と共同でつくりだした虚妄。

(1)南京陥落時、安全区に住民のほとんど全部が集まっていた。2キロ四方に20数万住民が密集している安全区で、組織的で大規模な、それこそ
数万件といった殺人事件が発生することはありえない。また、当時南京にいた外国人もそのような記録は残していない。
(2)戦時でなくとも強姦事件は発生するから、強姦については完全に個人の資質の問題。実際に処罰者も出ている。
(3)徴発については、対価を支払えば合法だが、事実上断ることは難しいから徴発された側は略奪と思う事もある。また、対価を受け取って日本軍に協力したとなれば身の危険があるので「奪われた」と主張することもあるだろう。

便衣兵狩りについては、勢力圏内に敵の兵力が万単位で存在するのだから、これを排除するのは当然であって、ことさらおかしな事をおこなったわけではない。
(軍事裁判を行えば手続き上も処刑は合法)
 幕府山事件など捕虜については、事変当時は楽観論から短期決戦を予想していた為に捕虜をどのように扱うのか明確は方針がなかった事により発生した事件であると言える。

No title

南京論争はすでに終了している

【普通にオカシイ】
・原爆被害者ですら数十万人なのに『一軍隊が30万も殺害』するのは不可能。
・そもそも『20万人しか居なかった街で30万人』が殺されるわけがない。
・仮に南京市に30万人がいたとして、それだけの人数が順番待ちでもしてたかのように
 『30万人全員が逃げずに殺される』などという話は現実的にはありえない。
・避難中の民が急に『戦闘地区に戻って来て』死者数が30万に増加など論外。
・30万人虐殺の一ヵ月後に『30万人が街に帰ってきたから人口が元に戻った』
 という中国の主張は不自然で整合性に欠ける。
・中国政府が『30万人は政治的数字だから変更できない』と公言したことが
 ある。中国国内の政治的数字など日本には知ったことではない。
・『大虐殺』の定義が不明。南京戦という局地戦における戦死者でまともに
 確認されたのはせいぜい2000人と一般戦闘並み。それを『大』とするなら
 妥当な規模ではないし、『虐殺』とする証拠も一切ない。つまり解決済みの
 一戦闘をことさら取り上げて日本を攻撃する『事件性がない』。
・日本軍に虐殺動機が全くない。
・物資不足で敗戦を余儀なくされた日本が、敵軍に急襲されかねない緊迫した
 状況下で弾薬を無駄にしてまで一般人を『遊興で30万殺害する説』など異常。
・虐殺後に減るならわかるが『逆に南京の人口が急増してることが不自然』。
・なぜか被害者数が年々『水増し』されている。
・「南京全市民は約20万人が全員無事だった」と、現地の安全区国際委員長から
 日本軍に感謝状が出されている。
・市民が避難した安全区に逃げ込んで一般市民の衣服を奪って武器を隠し
 持って日本を騙し撃ちする卑怯な兵隊を「便衣兵」というが、これらを
 捕まえて処刑するのは戦時国際法において合法な“戦闘行為”であり
 虐殺ではない。これを虐殺というのは逆恨みでしかない。
・「中国政府の意向に沿った記事を書くこと」を宣言した朝日新聞の自虐的な
 贖罪キャンペーンを受けて、戦後33年も経ってから日本の中学校教科書に
 突然『中国の教科書にさえ載ってなかった大虐殺』が登場することが不自然。
・日本の『敵国である外国人カメラマン』もたくさん南京市に取材に行って
 いたのに『虐殺写真が一枚も撮られていない』。存在しないものは撮れない。
・河に流しても燃やしても痕跡が残るはずの『30万人もの死体が完全に
 行方不明』。何の痕跡もなく人が消えるなどありえない。

【検証したらオカシイ】
・中国共産党軍の戦記(日中戦争を批判的にまとめたもの)の中にすら
 「南京虐殺」の記述など一行もない。
・中国国民党軍の「南京陥落の様子、将校・下士官・兵の戦傷者数」まで詳細に
 記録した軍事報告書にも「市民の虐殺」など一行も書かれてない。
・東京裁判で中国に「南京の人口が大虐殺で30万人も減」と報告書を提出した
 金陵大学社会学教授スマイスは、『東京裁判より前』の南京市の人口統計
 調査では「人口に大きな増減はない(日本の占領前も後も20~25万人で
 変化なし)」と報告していて、南京の安全区国際委員長もその数字を確証
 している。(皮肉にもこれらは全て中国側の資料から証明された)つまり
 『東京裁判前は現地で調査した学者すら大虐殺など認めてない』のに、
 『東京裁判では同じ学者が全く別の数字を提出した』というのは不整合。
・現在入手可能な南京の証拠写真は検証の結果『全て証拠能力がない』と
 証明された。中には日本の雑誌の表紙から無関係な兵士写真を引用し
 南京での略奪の図として証拠にあげる例もあり、捏造の存在は否定不能。
 他の写真も『明らかな合成の痕跡』だけでなく『南京には存在しなかった
 戦車や崖が写っている』『冬だったはずなのに夏服』など捏造が判明。
 結局証拠能力があるものは3万枚の写真から『1枚も』残らなかった。
・南京大虐殺記念館にある人骨が『文革の時に殺された人々の骨』だった。
 つまり「別の場所、別の時代に、中国人が殺した中国人の骨」だった。
 同様に南京大虐殺記念館で人体実験の証拠として展示している写真は
 実は『被験者は中国人ではなく日本人である』と判明している。
・日本が詳細な調査を提案すると『中国は真実の露呈を恐れ調査から逃げ
 続けてる』。真実であれば逃げる理由などない。

日本人はだまされるな

次の回答が参考になると思われる。

<Q>
昭和12年に日本が中国と戦争をした時に、日本軍が中国の首都の南京で
30万人もの中国人を殺したそうですが、本当ですか。
--------------------------------------------------------------------------------

<A>
嘘です。
それは南京大虐殺と呼ばれて宣伝されている事件のことですが、最近では
研究が進んできて嘘だとわかってきました

1、どうして日本軍が中国の首都の南京を攻めたのですか。

中国軍が上海で戦争をしかけて、日本と戦争になったからです。
中国に上海という都市がありますが、昭和12年(1937年)当時の上海には
租界というフランスやイギリスやアメリカが主権を持つ地域がありました。
上海にはフランス軍やイギリス軍やアメリカ軍や日本軍も駐留していました。
その頃にいくつかの事件があり日本と中国の仲が悪くなってきたので、
中国は上海ふきんに兵力を増強しました。日本も上海にいた数万人の日本人を
守るために兵力を4,000人に増強しましたが、中国軍は150,000人もの大軍でした。

そしてとうとう中国軍が攻撃を開始し、また中国軍機も上海を爆撃して日本と
中国との間で戦争が始まりました。最初のうちは日本軍は苦戦し続けました。
なぜなら兵力が少なかったし、中国軍はドイツ軍事顧問団の指導ですっかり
戦争の準備を整えていたからです。しかし、日本軍もだんだんと兵力を増強し、
苦戦を打開するために杭州湾というところに大軍を上陸させました。
すると背後をつかれた上海ふきんの中国軍は退却を始め、日本軍は中国軍を
追撃して首都の南京に迫ったのです。

その当時に主に日本軍と戦っていたのは現在の中国を支配している中国共産党
の軍隊ではなく、現在は台湾を支配している国民政府の軍隊でした。
当時の中国はいくつもの勢力がそれぞれ中国各地を支配していて、その最大の
勢力が国民政府軍で、この頃の中国共産党軍はその中でも小さな勢力でした。
だからここで中国というのは国民政府のことです。



2、当時の南京の人口はどのくらいだったのでしょうか。

日本軍が南京を占領する直前の人口は20万人で、占領後1月で25万人に増えました。
戦場が南京に近づくにつれ、多くの南京市民は避難して市内に残っているのは
貧しい難民だけになりました。陥落前の南京には22人の欧米人が残っていて、
そのうちの15人が国際委員会という会をつくりました。彼らは南京市内に
4平方キロに満たない広さの安全区という地域を設定して、ほとんどの民間人を
その地域に収容しました。上海の戦闘でフランス人のジャキーノ神父が安全区を
設定して上海市民に戦争被害が及ぶことを阻止できたので、南京の欧米人も
その真似をしたのかもしれません。

南京大虐殺があったと主張する人たちは日本軍占領直前の南京の人口は50万人と
述べたりしますが、それにはちゃんとした根拠はありません。当時の資料で人口に
関するものは約130件ほどありますが、この資料からは占領直前の南京の人口は
20万人くらいだったことがはっきりと浮かび上がります。また人口分布に関する
当時の資料は50件以上ありますが、この資料からは民間人のほとんど全部が
安全区にいたこともわかります。

もちろんこの数字は人口調査をしたものではないので、おおざっぱな数字です。
しかし、重要なのは昭和12年12月の日本軍の占領後に人口の減少がないことです。
人口の減少は当時の資料にはどこにも記録されていません。逆に日本軍の占領後は、
1ヶ月以内に人口が5万人増えています。例えば、当時の国際委員会の外国人たちは
難民に食料を配給しようと努力していたので、南京の人口が日本軍の占領前は
20万人くらいで占領後に25万人になったという事実をつかんでいて記録しています。
国際委員会の人口に関する記述は記録日や記録者が異なったものが三ヶ月間にわたって
何回も記録されていますが、この数字は常に一貫しています。

4.日本が戦争に負けた昭和20年(1945年)の南京の様子はどうですか。
市民が大虐殺を口々に訴えたり、日本人に復讐をしたりしたのですか。

そういうことはありません。
現在の日本人や中国人と違って、日本が敗戦した当時の南京市民(中国人)も南京に
住んでいた日本人も、南京大虐殺があったという認識はほとんど持っていませんでした。
戦後かなり後になってから宣伝が盛んになり多くの日本人や中国人が南京大虐殺を信じてしまったのです。

日本が戦争に負けた後で、中国は東京裁判に提出する南京虐殺の証拠を集めるために、
南京の日本軍の犯罪を告発するように中国人に呼びかけました。しかし、当時は
南京での日本軍による残虐行為を申し出る者は「甚だ少く」、「否認する者」もいて、
結局翌年の1月に東京裁判の証拠として提出できた証言は1件だけでした。
そのため、裁判中も中国側は証言集めに非常な努力をして11件の証言を裁判に
間に合わせて形だけはなんとか作りました。しかし、今日の目で落ちついて見れば
それらは日本軍が南京市内で大虐殺をやったと証明できるような証言でもなく、
ちゃんとした検討に耐えうるものでもありません。

日本軍の占領後の南京には一万数千人の日本人がいて中国人に交じって住んでいた人
も多かったのですが、当時は南京大虐殺などということを聞いた人はいません。
昭和20年の南京には一万人以上の日本人がいて、敗戦のために日本人は中国当局に
よって市内の一ヶ所に集められそこで半年ほど生活しました。しかし、敗戦後の南京
の日本人たちは虐殺の復讐を受けることもなく、中国当局から南京大虐殺ということを
聞かされることもありませんでした。彼らが南京大虐殺ということを知ったのは、
戦後に日本に帰って、後になって南京大虐殺を宣伝する本やマスコミに接してからです。

南京にあった日本軍の総司令部は中国軍に降伏した後に、一年以上にわたって
中国側との連絡や交渉の窓口として南京で活動しましたが、その間に南京大虐殺の
問題が中国側からもち出されたり、それによって両者の関係が悪化することはありませんでした。
当時の中国の指導者たちは南京大虐殺を本気で主張してはなく、裁判に関してのみの
パーフォーマンスととらえていたようです。

また、その司令部の日本軍人の一人は敗戦後の南京市内を毎日散歩していましたが、
危害を加えられることなどありませんでした。日本軍の多くの部隊も敗戦後に
南京周辺を経由しそこから揚子江を下り日本に向いましたし、南京市内で
下水掃除などの労働に従事した日本兵もいます。
日本兵は降伏して武器を持っていないので中国人から馬鹿にされることもありましたが、
当時は南京大虐殺ということを聞かされたり市内で復讐されることはありませんでした。


5、南京大虐殺の証言の多くは戦後かなり後になって作られたものですか。

そのとおりです。
証言は、それが『いつ記録されたものか、本当かどうかの検討ができるか』という
2点がとても大事です。日本人の中にも南京大虐殺を目撃したとか虐殺したという
証言をした人もいました。しかし、これまで本名で証言をした人は例外なくすべて
嘘であったことが確認されています。例えば、元軍人であれば同じ部隊の人が
まだ生きていたりしたので、周囲の人の証言や記録を調査すれば、彼は南京に
いなかったとか作り話であるということなどが判明します。

そのため、最近では日本人に関しては匿名の証言が作られるようになりました。
また、中国人の証言の多くは中国政府(中国共産党)が南京大虐殺の宣伝に力を
入れ始めた以後に作られた(記録された)ものです。しかも、証言はその証人が
本物か、証人は実際に当時の南京にいたのか、内容は真実かなどの検討が可能で
あって初めて意味を持つのです。

みなさんも本や被害者だという人の証言をうのみにするのはやめて、自分が裁判官
になったような気持ちで自分の目で証拠(当時の記録)を確実に検討してみてください。
そうするといわゆる南京大虐殺は、実体のないものだということがわかります。
証言については、その証言がいつ記録されたのかをまず確認しなければなりません。
例えば、もしあなたが、匿名やその場にいたかどうかも証明できない人の、
しかも事件から何十年後にされた証言だけで、犯罪者とみなされたら納得できるでしょうか。



6、当時の南京では実際にどういうことがあったのですか。

戦争で多くの兵士が戦死しました。また、軍服を着ていなかった中国兵の中には
逮捕後に処刑された人もいました。
東京裁判の時に中国側から南京虐殺の最も重要な証拠として埋葬記録が提出されましたが、
その記録では女性や子供の遺体は0.3%にすぎません。そして死体の収容場所の
ほとんどが城外の激戦のあった場所でした。これは死者は兵士の戦死者であって、
民間人の被害は少なかったという事実を裏づけてます。

また、中国軍の兵士は戦闘に負けると軍服を民間人の服に着替えて南京市内の安全区
に入ったので、日本軍は彼らを逮捕しその一部を処刑しました。これは当時の国際法
でも問題ありません。軍人が戦闘地域で軍服を着ないで逮捕されたら捕虜になる権利
はなく、処刑されても文句は言えないのです。

なぜなら軍人が軍服を着ずに行動すれば民間人と兵士との区別がつかなくなり、
結局は民間人がむやみに殺される結果を招くことになるからです。彼らを逮捕するために
日本軍は歩兵第七連隊という部隊が4日間だけ昼間に安全区の捜索をしました。
安全区内の捜索は将校の指揮の下にまとまって行なわれ、兵隊や下士官が独自に
行動することは許されませんでした。

その他には、南京市の郊外の幕府山というところで捕虜を護送する途中に暴動が起り
数多くの捕虜と少数の警備の日本兵が死ぬという事件などもありました。

7、でも、多くの人は南京大虐殺があったと信じているようですが。

そのとおりです。
現代の中国人の多くは屠殺記念館や抗日記念館や国定の歴史を学んで、南京で
30万人の市民が日本軍に虐殺されたと信じています。また世界の多くの人々も
そのように信じています。また、日本人も30万人虐殺はおおげさでもなんらかの
虐殺があったと信じている人が多いのです。

しかし、今の日本では研究はかなり進んでいて、当時の南京で民間人の老若男女に
対する虐殺があったということは、学問的には証明が不可能になっているといって
よいでしょう。当時の写真やフィルムも虐殺を証明するようなものはひとつもありません。
虐殺に見えるような写真が数枚ありますが、それらは作られた写真か写真の説明を
書き替えているものだということがわかっています。逆に虐殺がなかったことを
推測させる写真やフィルムはそれこそ無数といってよいほど数多く残っています。
ちゃんと検討された虐殺の証言もありません。

現在では、虐殺を宣伝する人たちは、軍服を民間の服に着替えた中国兵の処刑や、
捕虜を護送中の事故などを議論して南京事件があったと主張し、その一方では
南京大虐殺を民間人の無差別大量殺害のイメージで宣伝したりします。
また、南京大虐殺を上海から南京までという気の遠くなるような空間に広げて
虐殺があったと主張する学者もいます。もちろんそれは証明したり検討したりできる
ようなきちんとした話ではありません。

また、虐殺がなかったという状況証拠に反論するだけの研究者もいます。
それにもかかわらず、南京大虐殺があったと主張する人たちの多くは、
ナチスのユダヤ人虐殺と並ぶようなものとして南京大虐殺を宣伝しようとしています。そして残念ながら現在のところその宣伝は成功しているのです。

No title

下記も参考に。

南京虐殺はなかったということは証明できないが、あったという論拠も今やことごとく覆され、証明できず、限りなく「なかった」に近いのだという。その理由を数点、
分かり易く述べる。

(1)  1941年の蒋介石政府の内部報告書は虐殺があったという認識をもっていない。掠奪や放火はあったとされるが、これも日本軍がやったとは限らない。

(2)  毛沢東が延安で書いた「持久戦について」の中で、日本軍が蒋介石の軍隊を殲滅しなかったのは戦略的にまずかった、とさえむしろ言っている。
ここにも大量虐殺の認識はない。

(3)  虐殺を主張してきた日本人学者が主に依拠したのはティンパーリ、ベーツ、ラーベといった欧米の特派員の報告や文書である。しかし彼らは蒋介石政府の顧問であったり、武器商人であったりで、情報撹乱を意図していたスパイであった。証拠能力がない。

(4)  この他に大量虐殺があったと語ったいくつかの証言はすべて伝聞であって、誰かから聞いたという間接証言にすぎない。目撃証言もあるが、それは一人か二人の処刑を目撃したという話であって、大量虐殺の話はひとつもない。

(5)  ハーグ陸戦法規によれば、軍服をぬいだ不法戦闘員、つまりゲリラであるが、これは捕虜として保護される権利を持たない。日本軍が正規の捕虜を処刑したという証言は、昭和12年から東京裁判まで存在しない。

戦争のさ中だからゲリラの処刑はあったし、一般市民の誤殺もあっただろう。けれども組織的大量虐殺は考えられない。もしあれば、ナチスのような科学的焼却工場でも作らなければ屍体処理ができない。また殺戮任務の特殊部隊を用意しなければ、殺害自体が不可能である。特殊部隊編成の記録は必ず残る。しかしそういうものは日本軍史には存在しない。

偽証

次から次へとでてくる日本人の「偽証」者。日本人として、とうてい信じられず唖然とすることだが、朝日新聞など左翼メディアが、日本軍の残虐さを証言すれば、(たとえ大ウソつきでも)「英雄」「良心のヒーロー」と記事でさんざん持ち上げた。この事情を知らないと、ここ数十年に山のように出版し積上げられた日本軍「残虐もの」読み物の背景がまったくわからないだろう。

-------------------------------------------
「南京事件」をテーマにした映画「南京」が、サンダンス映画祭で初公開された。旧日本軍兵士の部分の多くには、日本の平和活動家によって収録されていた過去の  インタビュー映像を使用。一部には、文脈は不明ながらも、笑いながら虐殺を語る映像なども
挿入され、中国側との対比が強調されている。
-------------------------------------------
東史郎…一番有名な捏造者。原本が存在しない創作をバラまいた。中国じゃ未だに真実扱い
中山重夫…戦車段列から処刑を見たと吹聴していたが場所時間がコロコロ変わったのでうそがばれた
富永博道…当時は学生だったのに自分は南京戦に参加し虐殺したと証言。経歴照会であっさり嘘判明
舟橋照吉…東の懺悔屋成功に載せられて日記捏造。輜重兵の自分が1人で敵陣突撃し勇戦するというカッコつけかました仮想戦記な内容であっさり×
曾根一夫…野砲連隊の二等兵だったのに、歩兵で下士官だと経歴と日記を捏造。やっぱり経歴を調べられて嘘と判明。懺悔屋の代表格で、あの秦教授も騙された
田所耕三…強姦と虐殺を証言していたが、所属部隊が当該日時南京を離れていた事が判明。後に「普通の話だと記者が興味を示さないから…」と捏造を白状
太田壽男…死体大量埋葬を供述書に書く。が、梶谷日記(捏造物の数々と違って原本確認できる)により当時証言場所にいなかった事がバレる。撫順収容所での洗脳後に書いた捏造だった
富沢孝夫…海軍の暗号兵で、「南京発の松井軍司令官の虐殺を戒(いまし)める暗号を傍受・解読した」と証言(だから逆説的に虐殺があったという主張)。だが陸軍の暗号を海軍の知識しかない彼が解読するのは不可能で、おまけに証言日時には松井司令官は蘇州で入院していた
上羽武一郎…「上官の命令で強姦虐殺放火をした」と証言。しかし彼は「(後方で担架運びの)衛生兵」でしかもそんな命令が出たという史料は一切無し

このように偽証言・偽手記・偽もしくは改竄記録が出回っているので注意 これらは検証を受けるまでは堂々と真実として喧伝されていた偽記録等の特徴
・原本が確認できない(あるいはあると主張するが実物を見せることはない)
・なぜか南京戦前後だけ詳細に記録している
・南京戦前後だけ異常に矛盾点や他の一次史料との乖離が多い
・記録者証言者本人の経歴が実際と違う
・「日本や日本軍は懺悔しろ」というが、自分が私財を投じて賠償するなどの行動は無く、むしろ出版や講演で金儲けをしている

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「南京戦 閉ざされた記憶を尋ねて」の嘘

鬼頭久ニ(76歳・仮名)
 ・南京で一般市民を大量に殺害、女性を強姦したことになっている。当時、11歳! 果たして、11歳(小学校五年生)が日本軍人になれたか。そして、大人の女性を強姦できたか。そんなことはあり得ない。

三上翔(83・仮名)志願兵
・・・・・支那方面艦隊第3艦隊大1船隊第24○○艦隊
  第3艦隊=第2遣支艦隊と報道されている。
  遣支艦隊の創設は、昭和14(1939).11.15。  
  南京事件は1937年の12月だから、遣支艦隊はこの時点では存在しない。

町田義成(89歳・仮名)
1913年生まれ
当時24才
第16師団歩兵第33連隊第3大隊
 
大田俊夫(89歳・仮名)
1913年生まれ
当時24才
第16師団歩兵第33連隊第3大隊

三木本一平(89歳・仮名)
1913年生まれ
当時24才
第16師団歩兵第33連隊第2大隊

歩兵33連隊は12月15日からは城外掃討に移ったので、(つまり南京城の外)彼らの内14日に安全区に入って狼藉を働くものがいるとすれば、三本木氏のみ。 しかし、安全区には歩哨が立っていて、ここには連隊長といえども入ることが 許されていなかったので、第二大隊のメンバーが安全区内の難民に危害を
加えることは物理的に不可能である。 すなわち、町田氏と太田氏は南京戦に参加したと言っても南京城の外にいたのであって、難民ひしめく安全区はおろか、南京市内そのものに入れたわけではない。

12月21日になると、新配備計画により、各部隊の配置が変更になる。 第1大隊と、第二大隊が城内を警備することになり、第3大隊は南京南方約30キロの江寧鎮を守備することになりました。 つまり、第3大隊は南京市内にここでも入っていない。町田、太田の両氏は結局、南京市民とは接触していないはず。また、第二大隊が守備を命じられたのは住民が既に避難していないはずの南京市の南部であり、安全区があるのは漢中路以北でありますから、やはり住民との接触は考えられない。 三本木氏が南京市民と接触するとすれば14日以外は考えられませんが、先に述べた通り、安全区内には入っていない。 なお、この33連隊は1月22日以後北支に向かったので、以後は南京市とは関係ない。

田所耕太(86歳・仮名)
1916年生まれ
当時21才
第16師団歩兵第38連隊第1大隊
第1大隊は14日に南京城内に入ったことになるが、これは安全区ではない。 城の北部ですが、この日は33連隊の第2大隊とは違い、夜にはもう南京城を出ている。 なお、安全区には金沢第7連隊の第1・2大隊が担当している。 この第7連隊は12月24日をもって第9師団麾下の諸連隊とともに蘇州へ転進し、南京を去っている。 事務引き継ぎの関係上、第38連隊が安全区を含めた南京北部を掌握するのは25日以後。 それまで第16師るの各隊は南京城東方の敵と戦っていたので、南京市内にはいない。 なお、安全区内に入ったのは、38連隊の中の1個大隊ということなので、実際に住民と接触があったのは2000人の中の3分の1に過ぎない。

この時期、おびただしい数のジャーナリストが南京にいたが38連隊が関係するのは合法的な射殺一件のみ。虐殺証言はありえないことになる。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
元兵士たちへの調査手法について、
「信頼関係を結ぶ以前に抑圧的・高圧的な関係の成立である。これらは一種の
恫喝といえよう。」
「これほど間違いやおかしい表現の多い本はめずらしい。」
『週刊金曜日』10巻50号(通巻451号)052-053頁

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
歩兵第33連隊第5中隊の第1小隊長だった市川治平さんは、歩兵33連隊の生き字引とも言われ、野田連隊長をも、天野中隊長をも知っていて、戦後になって書かれた 「歩兵第33連隊史」の刊行では中心的な役割を果たした。
 
その市川さんが、この本をこう語る。
 「本当にばかばかしい本です。私のところに聞き取りには来ませんでしたが、元気なり 2人の戦友に尋ねたら、2人にも来なかったと言っています。まともな話をする人には行かないようです。 確かに予備役には悪い事をする人もいましたが、この本をざっと読んだところ、強姦など の話は、創作8割、本当2割でしょう」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

こんな狂人じみた偽証者たちを英雄ともちあげ、中国にデマを広めた日本の左翼ども、キチガイ朝日新聞どもへ。
南京事件の逆恨みを受けて、日本人が中国人に殺されることがあったら、てめえ達は自分で腹を切って死にやがれ。

アイリス・チャン

以下は、客観性を求める中国人の記事


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
東瀛小評  推薦文章

林思雲 「アイリス・チャン著"The Rape of Nanking"に関する私見」
原題:「小評張純如女士的《南京暴行:被遺忘的大屠殺》」
 『日本華網』インターネットサイト2004年11月19日掲載
                                                (邦訳2004年11月23日)
  アイリス・チャン(Iris Chang/張純如)女史の著した"The Rape of Nanking"は、ベストセラーとなってはげしい“争論”を引き起こした。張女史はつい最近不幸にも死去したが、そのことでふたたびこの書籍をめぐる議論が交わされることになった。  
  この小文では同書に対する個人的な意見を数点しるしてみたい。  

 まず最初にチャンの言語に関してである。南京大虐殺は中国と日本の間に発生した事件であるから、南京大虐殺を研究しようとすれば中国語と日本語両言語に通じていなければならないことは、言うまでもない。でなければ第一次史料や関係資料が読めないからだ。ところがチャン女史は日本語を知らない。それどころか中国語も出来ない。中国語を読めないので他人に翻訳してもらわなければならなかった。日本語も中国語も理解しない外国人が、中国語や日本語で書かれた原資料や関係文書を読めないにも関わらず中国と日本の間の“歴史の真相”を明らかにする著書を書こうという、それだけで危惧を抱かせるに十分である。
  さらに気になるのは、チャン女史が当然行うべき現地調査を行っていないことだ。女史は"The Rape of Nanking"を書くにあたって、1995年7月に南京を25日間取材のために訪れた。しかし日本へは行っていない。歴史の真相を明らかにする書を書くのに、中国での取材がたったの25日だけとは短すぎるのではないだろうか。それはまだよいとしても、日本で現地調査をしていないというのは、歴史に対する責任という点から見れば、真面目さを疑われても当然だろう。  
 日本では敗戦後、おびただしい文書が公開された。南京大虐殺関連の人証や物証は、さがせば出てくるはずである。チャン女史が日本に来て探索すれば少なからぬ収穫があったはずだ。「日本の右翼が南京大虐殺の調査を妨害したのだ」という人がいるが、それならなおのこと、女史は日本へ行くべきだったろう。日本の右翼がどのように調査を妨害するか、自分の身で親しく体験して著書に書き入れるべきだったのだ。そうすれば説得力もいっそう増したはずである。
 
  そして、日本を訪れて現地調査を行わなかった、まさにそのために、女史はこの著書の日本に関する記述で初歩的な間違いを犯してしまっているのである。“学者”と名がつく者なら犯してはならない種類の間違いである。  
  同書の「序言」のなかから、現代日本に関する言及をいくつか取り上げて検討してみる。

  A.「日本ではテロの恐怖が南京大虐殺に関する公開の、あるいは学術的な討論を阻止しており、さらには人びとの事件の真相を知ることへの圧力としてはたらいている。日本では中国との戦争に関して自分の本当の意見を発表する人間は、解雇の危険にさらされている。生命すら脅かされないのだ。」  

 日本に一定の期間以上暮らしたことがある人間なら、これがまったく根拠のない発言であることがわかる。第一に、日本には“テロの恐怖”など存在しない。右翼がしばしば市街でデモンストレーションを行うが、民主主義で言論が自由な国家では当然の現象である。“テロの恐怖”などとは何の関わりもない。第二に、自分の日中戦争に関する意見を正直に口にしたために解雇すると脅迫された日本人に、私は一人も会ったことがないし、そんな話を耳にしたこともない。そしてチャン女史もまた自説を立証するための実例をひとつも挙げていない。  

  B.「このような危険に溢れる雰囲気にあって、良心的な研究者の多くが、この分野に関する研究を行う目的では日本へ調査に行こうとはしない。実際、私が南京で聞いたところでは、身の危険を案じて中国は自国の学者の日本訪問をめったに許可しないとのことだった。このような状態では、外国人が日本にある南京大虐殺の文書資料を利用したくてもきわめて困難なのである。」  

 この箇所になると、さらに意図的な虚言の疑いさえある。中国の学者が資料調査に日本へ行かないのは身の危険を案じて“中国は自国の学者の日本訪問をめったに許可しない”からだというくだりは、まるで『アラビアンナイト』でも読んでいるかのようだ。中国人でさえ信用するとは思われない。

 C.「もしドイツで歴史の授業でホロコーストを割愛しようとすれば法律に違反する行為となる。しかし日本では過去数十年間、教科書から南京大虐殺に関わる材料は根こそぎに削除されて、まったく掲載されていない。博物館からは南京大虐殺の写真が撤去され、原資料は隠滅されてしまった。大衆文化には大虐殺の痕跡は皆無である。」    

 チャン女史が日本の教科書にまったく目を通していないことは明らかである。私は数種の中学教科書を自分の目で確かめたが、そのどれも“南京事件”あるいは “南京大虐殺”は紹介されていた。従来の教科書がそうだから、右翼が教科書を改訂すべきだと主張するのである。NHKの歴史ドキュメンタリー番組『映像の世紀』にも南京大虐殺はテーマとして取り上げられている。

  D.「日本の権威ある歴史研究者である教授でさえ右翼勢力に加わって、南京大虐殺に関する報道に疑問を呈したり誹謗したりする任務を遂行し、彼らがそれを国家への忠誠のあかしと考えているのだ。」  

  “国家への忠誠のあかし”を日本史の教授が行っているなどとは、評することばもみつからない。南京大虐殺に関する報道に“疑問を呈する”のは個人の自由である。ある個人が何かについて“疑問を呈する”のがどうして非難されなければならないのか。

 E.「本書は日本人の性格特質を批判するためのものではないし、このような蛮行を行った民族の遺伝子構造を云々する意図もない。本書では、文化がなぜ人間を悪魔に変えることができるのか、人間の社会的な規制の表皮をどうやってはぎ取ることが出来るのかをたずねようとしたのであり、それと同時に、文化がその規制力をどうやって強めることができるのかを知ろうとしたものである。」

  チャン女史は「文化がなぜ人間を悪魔に変えることができるのか」と書いている。ということは日本の文化は日本人を悪魔に変えると言っているわけであろう。  
 しかしながら、チャン女史は日本文化と日本人に関してこの評を下す前に、実際に日本の土を踏んでみて、日本文化には日本人を悪魔に変えるどのような魔力があるのかを考察すべきだったのではないだろうか。中国では文化大革命時期に大量の残虐事件が発生した。女子学生が教師を殴り殺した事件もあったし、食人事件すら起こった。これらも悪魔の所業と呼べるだろう。しかしもし外国人がこれらの事件に基づいて中国文化は人間を悪魔に変える文化なのだと言えば、中国人はおそらく同意しないはずである。
 
  F.「真相を明らかにしようとする試みはいつも、日本人という民族がいかに自らの集団的健忘症を育成・助長・維持しているかという事実に突き当たる。彼らは、そんなことはことはした覚えもないとしらを切るのだ。歴史に対する彼らの回答は、本来ならば、苦痛を書き記すべき歴史書における空白なのである。日本の学校教育において日本軍が戦争中に行った悪行は教えられることはないのが現実なのだ。それどころか、彼らは歴史を注意深くカモフラージュし、神話を捏造し、戦争に踏み切った加害者でありながら日本を戦争の被害者に仕立て上げている。広島と長崎の原子爆弾の日本人にもたらした恐怖が、この神話が歴史にとって変わる助けとなった。」  

 チャン女史の“彼らは歴史を注意深くカモフラージュし、神話を捏造して、戦争に踏み切った加害者でありながら日本を戦争の被害者に仕立て上げている”という発言には、ひとつの実例も挙げられてはいない。いかに日本が歴史を“カモフラージュし”ているか、いかに“神話を捏造して”いるのかについて具体的な証拠なしにこのような断定的批判を行うのは、責任ある研究者のなすべき行為ではない。

 中国人は口げんかは得意だが議論と論理的説得はあまり得意ではない。ただの罵り合いになってしまう。チャン女史のこの書の基本的性格は、日本の右翼と罵り合いをするために書かれたものであって、南京大虐殺を否定する日本の右翼に対して“議論”あるいは“論理的説得”を行うためのものではないようである。チャン女史が中国の英雄だというなら、中国式罵詈雑言の英雄であろう。 私は南京大虐殺の存在を否定しない。中国でこの問題を真剣に研究する人間がでてくることを切に希望している。だがチャン女史のような感情的な研究方法には賛成できないのだ。 

宮崎氏の記事より

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◆◇◆◇

「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」 
平成19年(2007年) 4月6日(金曜日)  
通巻第1763号  
△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△

 「大虐殺とよべるものはなかった。あれは南京の政治である」
   北村稔教授が外国人特派員協会で客観的な論考を講演
****************************************


 日本外国特派員協会で、立命館大学教授の北村稔氏が、新著『The Politics of Nanjing 』(「南京」の政治学)について会見をしました。
会場には50人以上が詰めかけ、その中には藤岡信勝氏・田久保忠衛氏らの顔が見え、”CHINA”とシールの貼られたビデオを回す見慣れないカメラマンが入り込み、北村氏と欧米人記者との間の質疑応答では白熱した議論が展開されました。
北村氏の新著は、5年前に出版された『「南京事件」の探求 - その実像を求めて』の英訳本で、翻訳者ハル・ゴールド氏も隣席していました。

同書の主題は、先の大戦中の1937年末から38年にかけて南京に進駐した日本軍によるマサクル(虐殺)があったどうかの検証です。
同書の結論は、”虐殺と呼べる事実”はなかったというものです。
リベラル派(日本にいる外人記者・ジャーナリストのほとんどは、そう思っていい)の滞日数十年の古株外人記者たちが正面最前席に陣取り、緊張した空気が漂っていました。

北村氏の英語のスピーチは以下のようなものでした。

●1937年~38年にかけての日本軍の南京占領下の状況をマサクル(虐殺)と呼ぶべきか、ディスオーダー(混乱)と云うべきかに焦点を当てて論じたのが、私の英語の新著『The Politics of Nanjing 』である。

●内容は5年前に文芸春秋新書から出した『「南京事件」の探求 - その実像を求めて』と90%は同じである。 この5年の間に見出された事柄や所謂”百人斬り事件”についての新事実は脚注の形で入れ込んだ。

●「南京事件」についての中国側の主張は一致していて、30万人虐殺説である。
日本側はそれを真っ向から否定している。

●新著は”中立者”の立場から歴史を再現し検証したものである。
新著が依拠したのは、南京と東京で戦後行われた戦争犯罪人裁判で下された判決を形成したアメリカ人、中国人、欧州人の証言や彼らが提示した証拠である。

●日本人の証言は採用しなかった。 日本人の調査によってもたらされた証拠も採用しなかった。 もしこれらを採用したなら、日本の立場を擁護する政治的偏向の書であるとの非難を惹起し、 人々は私の調査に関心を寄せないだろうと考えたからである。
それらの証言・証拠を分類し、ひとつひとつが生み出された由来・背景・事情を鑑定し、その信頼度を確認した。 一つ一つの証言が証人によって実際に目撃されたものかを詳細に調べた。

●これらを吟味する作業は、社会的な常識、”コモンセンス”を以ってした。
”コモンセンス”を以って、所与の状況下での人々の行動の質と規模の蓋然性について合理的判断を下した。
こうしてこそ、読者の理解を得ることになるからである。


△論考はコモンセンスをもって

●多様な証拠や証言について、判断力を具えた人々の大多数が、矛盾がない妥当であると思うことを判定の拠りどころとした。採用した審査員団のリーダーにも、私(北村)が学術的な調査・手法を通じて集めた発見物を提示し、”コモンセンス”を以って合理的に判断してもらった。

以上の手法から到達した結論は、混乱(コンフージョン)や無秩序(ディスオーダー)は存在したと云えるが、決して虐殺(マサクル)はなかったというものだ。
戦闘員による計画的な、ナチがユダヤ人にしたような大虐殺は日本軍占領下の南京ではなかった。

●秩序の乱れとは、法的な手続きを経ない戦争犯罪人(P.O.W)の処刑である。これは絶対的な食物不足から大量のP.O.W(後の質疑で1万人と北村氏は記者に応えていた)の処刑が行われた。

●中国人は南京市内でなく、多くはその外で死んだ。 大量の中国人市民が中国人兵隊と混在し、南京から避難しようとした混乱があった。
その避難民を日本海軍の爆撃機は攻撃し、多くの中国人は揚子江のえん堤周辺で命を失った。 この悲劇の一因は、南京を守っていた中国兵が、避難に欠かせない渡河船・艀をすべて焼いて沈めたことにある。

●国民党軍の南京司令官唐生智は最後の一兵まで日本軍と闘うと宣言して、日本軍の降伏勧告を拒絶した。
しかし唐生智は 南京陥落の一日前に自分の逃亡用に確保していた蒸気船に乗って逃げ、1万人近くの兵を置き去りにした。 これは蒋介石の命令によりなされた。 残された中国軍から統率は失われ、指揮命令系統は絶たれ、彼らは絶望的な混乱に陥った。

●ジョン・ラーべは南京の守護者・擁護者として、アイリス・チャン本に登場する有名なドイツ人である。 彼は、ドイツ企業シーメンスの南京代表で、ナチであった。
蒋介石はドイツ・ナチと友好関係を結んでおり、ナチから軍事顧問団を迎え、シーメンスから大量の兵器や戦闘用備品を購入していた。
ラーベやドイツ軍事顧問団は、他の西欧人とともに南京陥落後も市内に留まり、安全区に”国際コミティ”を形成した。 ここに逃げ込んできた避難民に水や食料を供給していた。

●一方、親日中国人層により形成された”安全政府コミティ”もあって、日本軍・日本領事館はこれをサポートした。
日本軍は”安全政府コミティ”に施政権を渡して、占領を解きたかったが、彼らが自立できず叶わなかった。 これは早急にイラク人に施政権を渡して、そこから引き上げたい今のアメリカ軍と同様であった。

●米・露大使館含め現地に留まった西欧人は慈善行為に努めただけでなく、南京市内外で生起していた状況をよくリポートした。これらのリポートは、都度日本領事館にも渡された。 蒋介石の国民党政府はリポートを集成し、内容を確認して、南京陥落から2年後の1939年、上海と香港で南京安全区のドキュメント資料として出版した。 ここにその本を持参したが、その中のエピソードをふたつ紹介する。

ひとつは、1938年1月初め、日本軍が米を安全区外の中国人に配給していること。

もうひとつは、日本軍の援助で行われた米と小麦粉の配給についてで、ラーベから日本領事館の福田参事への手紙がそのことに触れている。

「1938年1月8日、”安全政府コミティ”により1,250袋の米がただで配られ、10,000袋の米が売られることになった。 9日それらの米を運んでくれと頼まれトラック5台を手配して、10日に実施されるとそれらは瞬く間に無くなった。 日本軍が同地区で登録した10歳以下の幼少児を除く16万人の人口から推して、他地区の人口と併せると南京には25から30万人がいると推計される。 そうすると一日に必要な米の量は2千反になる。 アドバイスや援助が必要なら遠慮なく申し出て欲しい」とラーベの手紙は書かれている。

●このことは当時の南京で、西欧人の”国際コミティ”と中国人の”安全政府コミティ”と日本軍・政府が緊密な協力関係を築いていたことを示している。
大虐殺があったという主張と著しく矛盾する第三者である西欧人(ジョン・ラーベ)の残した証拠である。


△戦犯をでっちあげるために


虐殺がなかったにもかかわらず、なぜ戦後戦争犯罪人を裁く法廷で、「南京虐殺」として日本軍は訴追されたのか?
それは次の二つの要因があると考えられる。

ひとつはA級戦犯の基準づくりである。
チェコ人のエチェル博士が主張した文明破壊と看做されるナチの非道なホロコーストと同様の文明破壊を日本軍も冒したことにし、A級戦犯として特徴づける必要が生じたのである。 そのために南京での混乱を虐殺に格上げすることにしたのである。
これはイスラエル人のコチャービが日本軍を直接採り上げていないエチェル説を精緻に分析したものに基づいた、私(北村)の仮説である。

二つ目の要因は中国人の文化的誇張癖である。
中国人は悪名高い、誇張癖を発揮する民族である。時としてウソ(に近いもの)となる。
戦後の法廷で、小さな慈善団体の代表が日本軍の南京占領下、一ト月で10万体以上の死体を埋めたという証言や、市民の間に逃げ隠れた正規の警察官が5千人以上の処刑を目撃した証言などが証拠採用されている。

北村氏のスピーチの大要は以上で、この後、記者たちとの質疑に移りました。
まず、TVによく登場する禿頭鬚面のドイツ人が、虐殺と虐殺でない行為の境界線をどこに引くのかとの質問を北村氏にぶつけてきました。
北村氏は温厚に静かな口調で、「私の主張は虐殺と呼べる行為はなかったというものです」とかわしていました。

続いてこれもTVにも登場する滞日40年以上の米人ジャーナリストが、南京で日本軍は何人殺したかその数字を北村氏に問い質しました。
これに北村氏は、丁寧に「そういう調査はしていないのです」と応えたのですが、数字を挙げろとしつこく食い下がられ辟易気味でした。

朝日新聞との闘い

涙なしでは読めない元兵士の孤独なたたかい

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
朝日新聞との闘い・われらの場合
都城23連隊の戦史を汚すことは断じて許さぬ
吉川正司(元都城歩兵第23連隊・中隊長)
※「文藝春秋」昭和62(1987)年5月号より転載
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
昭和59(1984)年8月4日、朝日新聞夕刊に5段抜きの大見出しが躍った。
 「日記と写真もあった南京大虐殺、悲惨さ写した3枚、宮崎の元兵士後悔の念をつづる」と題されたこの記事は、翌5日朝刊の全国版にも掲載され、一大センセーションを巻き起こす。
 思えばこれが、朝日新聞との2年5ヶ月におよぶ闘いの幕開けだった。
 その記事によれば、宮崎県東臼杵郡北郷村の農家から、南京に入城した都城23連隊の元上等兵が所持していた、「虐殺に直接携わり、苦しむ真情をつづった日記と、惨殺された中国人と見られる男性や女性の生首が転がっているなどの写真3枚が見つかった」というのである。
 惨殺写真もさることながら、日記の内容は衝撃的だった。
 昭和12(1937)年12月12日の南京入城から3日後の15日に、こういう記述がある、と記事は言うのだ。
 (カッコ内は朝日の註)
 「今日逃げ場を失ったチャンコロ(中国人の蔑称)約2千人ゾロゾロ白旗を掲げて降参する一隊に出会う。・・・・・・処置なきままに、それぞれ色々な方法で殺して仕舞ったらしい。近ごろ徒然なるままに罪も無い支那人を捕まえて来ては生きたまま土葬にしたり、火の中に突き込んだり木片でたたき殺したり、全く支那兵も顔負けするような惨殺を敢えて喜んでいるのが流行しだした様子」
 21日には、こう書かれてあるという。
 「今日もまたニーヤ(中国人のことか)を突き倒したり倒したり打ったりして半殺しにしたのを壕の中に入れて頭から火をつけてなぶり殺しにする。退屈まぎれに皆おもしろがってやるのであるが、それが内地だったらたいした事件を引き起こすことだろう。まるで犬や猫を殺すくらいのものだ」
 かねてから南京大虐殺に固執していた朝日にとっては、きわめて重大な発見とみえて、記事のリードには「広島、長崎の原爆やアウシュビッツと並ぶ無差別大量殺人といわれながら、日本側からの証言、証拠が極端に少ない事件だが、動かぬ事実を物語る歴史的資料になるとみられる」とある。
 ところが、この"歴史資料"は生き残り将兵で結成している「都城23連隊会」の人々のその後の調査によって、見るも無残に突き崩されることになる。
 南京陥落の時、私は中尉であった。
 都城歩兵第23連隊の中に連隊砲中隊というのがあり、その中隊長代理として南京作戦に加わったのである。
 突入翌日の13日には城内の掃蕩をやっているが、城内に敵兵は一兵も見ず、一般住民もいない全くの死の街であった。
 連隊はそれ以降、主力を水西門東南方地区の市街地に、第1大隊をもって12月21日まで水西門外に駐屯し、警備にあたったが、翌13年1月13日に蕪湖へと転進するまで、虐殺事件など見たことも聞いたこともなかったと断言できる。
 従って朝日の記事内容はまさに寝耳に水であった。
 身に覚えのない報道に対して、最初に行動を起こしたのは、地元に住む「都城23連隊会」の面々だった(私は東京在住)。
 これ以降の記述は、主として宮崎の連隊会事務所がまとめた「連隊会だより12号」にのっとってすすめていくことをお断りしておく

「新聞は嘘つかん」

 報道から2週間後の8月19日、連隊会は宮崎市で第1回対策協議会を開いた。
 調査のため北郷村に人を派遣することになったが、たまたま当時の第2中隊長だった坂元昵氏から、私が行くとの申し出があった。
 氏は生存者の中では最高責任者で、その時86歳という高齢を顧みず、8月24日、自分の息子に車を運転させて、わざわざ鹿児島から出てこられた。
 途中、宮崎で中山有良事務局長を乗せ、北郷村に到着したのである。
 何よりもまず、日記の主が誰であるかを突きとめねばならない。
 問題の記事によれば、日記を書いた兵士は当時23歳の上等兵で「帰国後、農林業を営み、49年に腎臓病で死去した」という。
 坂元氏らは、北郷村に住む数名の生存者に訊ねたが、誰にも記憶が無い。
 続いて郵便局に行き、年金や恩給の受給関係書類から見つけようとしたが、これも無駄骨だった。
 お手上げかなと思ったところで坂元氏が妙案を出した。
 「お寺を回ろう。過去帳があるはずだ。」
 北郷村には3つの寺があり、2度空振りあと、最後に回ったお寺で、ようやく49年に腎臓病で死亡した元兵士を探し当てたのである。
 名前は河野美好―――。
 ところが翌朝、河野未亡人に電話してみると、何とも意外なことに、
 「主人は日記などつけたことはありません。日記を書くような教養はありませんでした。それから写真機を持つような、そういう贅沢な身分ではありません」
 との返事である。
 この時点で調査はいったん暗礁に乗り上げてしまう。
 昭和59年9月22日。
 連隊会の一行5名が朝日新聞宮崎支局に第1回の抗議に出向いた。
 対応に出たのは中村大別支局長で、双方にはおおむね次のような激しいやりとりがあった。

 連隊会「まずお伺いしますが、本件は東京の本社が取材されたのでしょうか」
 支局長「いや、当宮崎支局の取材です」
 連隊会「宮崎支局の取材とは驚いた。取材には万全を期しておられるか」
 支局長「万全を期している」
 連隊会「それなら、なぜ事前に連隊会に照会されなかったのか」
 支局長「日記帳や写真が出てきたから、照会の必要はないと思った」
 連隊会「日記には23連隊の何中隊と書いてあったか」
 支局長「そこまで確認しなかった。こんど見ておく」
 連隊会「その兵士の名前は」
 支局長「いや!それは言えない。本人に迷惑がかかるから」
 連隊会「真実なら何も名前を隠す必要はないではないか。本人の名前がわかなんとなれば、支局長、あなたを告訴せねばならぬことになるが、よろしいか」
 支局長「・・・・・・・・・」
 連隊会「貴社が虐殺があったと判断した根拠は、日記帳と現場を撮影したと思われる写真からか」
 支局長「その通りだ」
 連隊会「新聞記事によると、その日記は1月1日から12月31日まで、毎日1日も欠かさず記入されているとのことだが、本当か」
 支局長「その通りだ。表紙はボロボロになっており、白い紙質は褐色に変じ、インクの色も変色して昭和12年に記載されたものに間違いないと判断した」
 連隊会「それはおかしいではないか。戦争をしている兵隊が毎日毎日、日記がつけられると思いますか!それに鉛筆書きならいざしらず、インクとは恐れいった。当時は、ペン書きするにはインク瓶からスポイトでインクを補充せねばならない時代だが、戦場へインク瓶を携行するなど考えられない。ましてや一兵士が戦場へカメラを持参するなどとんでもない話だ。将校ですらカメラを携行したものは1人もいない。
 支局長のポストを就任されるだけの学識あるあなたが、1日も欠かさず日記が記入されているということだけで、これはおかしいと思い、カメラ携行とあれば、これは臭いな、となぜお考えにならなかったか。貴方ご自身の方が余程おかしいと私たちは思うのですが、いかがですか」

 ここで無言のまま席を立った中村支局長は、やがて1枚の写真を持って現れ、連隊会の代表たちに「これを見てください。」と突きつける。
 それは、建物の前の路面に生首が12、3個ころがっている写真であった。

 連隊会「これはなんです、これが虐殺現場を撮影したと思われる写真なのですか!」
 支局長「その通りです。中国人の生首です」
 連隊会「これを見て、支局長は即座に虐殺現場の写真だと思われたのですか」
 支局長「その通りです」
 連隊会「おかしいですね。生首が転がっているだけでは、兵隊なのか一般人なのかもわからない。悪く勘ぐるなら、中国の兵隊が匪賊討伐を行った際に打ち首になった匪賊の首かもしれません。支局長はこれをひと目見ただけで、よくも日本軍が中国人を虐殺した写真だと判断されましたね。その根拠は!?」
 支局長「この写真を持っていた本人が、生前この写真を見ながら後悔していたという事を聞いていましたから、てっきり虐殺の現場写真だと」
 連隊会「しかし、その本人は10年前に死んでいるんでしょう。それでは直接本人から聞かれたわけではなく、その家族の方からの話ではありませんか。信用できますか!」

 このあともしばらくやりとりは続き、連隊会側は最後にこう要求した。

 「先日、孫がやってきて「爺ちゃんたちは悪い人間じゃねー」と言いますので、「何を言うか!爺ちゃんたちは、日本を守るために生命を投げ出して戦った立派な者ばかりだ。悪いことなどしてはおらん」と言うと、「新聞は嘘つかん」と逆襲されました。
 私ども生きている者は我慢の仕様もありますが、若き命を散らせて消えた英霊は浮かばれません。
 どうか、全国版で都城歩兵23連隊は南京大虐殺には参加せず、無関係である旨の記事を出していただきたい」
 中村支局長の回答は「その事はしばらく待って下さい。私一存ではどうも」というもので、物別れのまま朝日との第1回会談は終了した。

有力な日記執筆候補者

 昭和59年10月のある日、連隊会事務局に、問題の日記の筆者についての重大な情報が入る。
 情報は第1中隊の代表者である山路正義氏からのもので、
 「歩兵23連隊の戦記編纂の折に、「この日記は役に立つのではありませんか」と、北郷村の三浦松治氏が私に当用日記を届けてくれたことがありました。その日記は、北郷村出身で私と同じ中隊にいた、故宇和田弥一君のものでした。日記の中から何か戦記に掲載しうるものはないかと詳細に目を通し、結局、2ヵ所を戦記に載せた次第です。しかし、朝日が指摘している虐殺などのことは書いてありませんでしたから、この日記ではないかもしれませんが、一応ご参考までに」という連絡であった。
 調べてみると、宇和田弥一君は昭和48年に腎臓病で世を去っている。
 朝日の言う49年に死亡とは1年のズレがあるものの、戦争当時は上等兵で、農業学校を出ていて教養もあるし、筆も立つ、河野美好氏と共に、有力な日記執筆の候補者として浮かび上がってきたのである。
 実は、山路氏の情報の中にある「歩兵23連隊の戦記編纂」の最高責任者は私であった。
 私は、市ヶ谷にある自衛隊の幹部学校で戦史教官をやっており、戦記を編纂するなら一番適任であろうとなって、昭和49(1974)年に発案し、53(1968)年にようやく完成させたのである。
 その際、各中隊ごとに編纂委員を決め、資料を集めてもらった。
 その中に宇和田氏の日記も入っていたのである。
 ところが、私は全体の監修者という立場にあったため、当時、宇和田日記の現物は見ていない。
 実際の事務所は宮崎でやり、戦記完成後、この日記は未亡人の宇和田八重子さんに返送されていることが後にわかった。
 連隊会は情報入手後、ただちに仲介役の三浦松治氏に聞いてみたところ、
 「年月ははっきりしませんが、ある日のこと、故宇和田さんの霊前に詣でたところ、奥さんが「こんなものがありましたが、何かお役に立ちますか」と申されて、一冊の日記帳を差し出されました」との返事だった。
 "山路情報"は確実に裏付けられたが、奇妙なのは、「最初の北郷村調査の折に何故そのことを告げなかったのか」と問われた三浦氏が「別の日記かと思って黙っていた」と答えたことである。
 さらに奇妙なのは、宇和田未亡人の対応だった。
 連隊会から未亡人に電話をし、「ご主人は日記帳を持っておられたそうですね」と尋ねると、間髪を入れずに、
 「はい、写真3枚と日記帳がございました」との答えが返ってきた。
 日記の有無だけを尋ねたのに、なぜ聞きもしない写真の件を持ち出されたのか。
 いずれの電話のあることを予期していたかのような反応は、まことに不可解であった。

「家族のために助けてください」

 双方の都合で延び延びとなっていた朝日との2回目の会談が、昭和60(1985)年2月4日、朝日新聞宮崎支局で開かれた。
 連隊会側の出席者は前回と同じく5名、先方は中村支局長である。
 この席で、中村支局長は意外にも、
 「先般から日記が本件のポイントだとご指摘になっておられるから、今日はその日記をお目にかけます」と言ったのである。
 連隊会側は色めきたった。
 支局長は後方の棚から、ナイロンの袋に入った日記帳と思われるものを取り出した。
 てっきりテーブルの上に置かれるのかと思ったら、そうではなく、手に持ったままテーブルから10歩くらい、およそ5メートルほど離れた位置まで後退して、立ったまま自分の胸の高さのところで日記帳の真ん中あたりを左右に広げて見せたのである。
 連隊会の後藤田萬平氏が椅子から立ち上がり、近づこうとすると、支局長はこれを制した。
 「近寄ってはいけません。書体がわかると誰が書いたかわかりますから」
 5メートルも離れていたのでは、それが日記帳だと判断することさえ出来はしない。
 実は私自身も、昨年末に一度だけ日記の"現物"を見せてもらっている。
 しかしこの時も3メートルほど離れたところからで、判読はいっさい不可能であった。
 朝日のこうした態度は何を意味するのであろうか。
 日記が本物なら、なぜ堂々と見せようとしないのか。
 よほどやましいところがあると思われても、仕方がないではないか。
 ともあれ、会談は結局のところ第1回目の論争の蒸し返しに終始したが、それでも終わり近くでかなりの収穫があった。
 連隊会側が、「日記を書いた兵士は、49年に腎臓病で死亡したとの朝日記事を踏まえて調査したところ、河野美好氏であることが判明しました。しかし、未亡人は否定しています。どちらが本当か、支局長と河野未亡人とで対決していただけませんか」
 と持ちかけたところ、支局長はしばし間をおいてから、
 「いや、その人ではなく、別の人から届けられたものです」と答えたのである。
 ここで、日記の主は河野氏でないことがはっきりした。
 つまり、49年に死去したという部分は、誤報であることが明らかになった。
 小さなこととはいえ、記事全体の虚構性をうかがえるに足る貴重な第一歩となったのである。
 4日後の2月8日、都城23連隊会は、朝日新聞宮崎支局長宛に正式な抗議文を提出した、記事取消しを求めるなら、「正式の文書にしてご提出下さい」との中村支局長の強気な発言を受けてのものである。
 抗議文を提出してまもなく、当の中村支局長から連隊会の中山事務局長に連絡が入った。
 今日ご来社、ただし中山さん1人でおいで下さい、他人には聞かれたくない相談がありますから、との電話であった。
 前述した「連隊会だより12号」は、中山事務局長を中心にまとめられたものである。
 その「連隊会だより」によれば、中山氏が宮崎支社に赴くと、支局長はひどく低姿勢で2階の会議室へと案内した。

 支局長「抗議の公文書、確かに受け取りました。その事ですが、「お詫び」だけはご勘弁下さいませんか。その事を記事にすれば、私は首になります」
 中山「首になる。仕方ないじゃありませんか。嘘の報道を大見出しの記事として全国版に掲載したんですから。その責任をとって首になるのが当然じゃありませんか」
 支局長「その責任は重々、感じています。しかし首になると私は困ります。私の家族のために助けて下さい。お願いします。この通りです(両手をついて頭をさげる)」
 中山「お詫びがないと、私の方が困ります。亡き戦友の御霊を慰めるのが私ども連隊会の責務ですから」
 支局長「そこのところ何とか」

 2人の間で種々のやりとりがあったすえ、お詫びとか記事取り消しといった言葉は使わないが、全国版・地方版で連隊は南京大虐殺とは無関係との旨を報道することで、両者が合意した。
 事務局長は帰ってから連隊会の安楽秀雄会長とも相談し、やむを得ないとの承諾を得たのである。
 昭和60(1985)年2月24日、朝日地方版は「「南京大虐殺と無関係」元都城23連隊の関係者が表明」として次のように報じた。

 《日中戦争中の昭和12年暮れ、南京を占領した日本軍による「南京大虐殺」事件について、宮崎市に事務局をおく都城23連隊会の安楽秀雄会長、中山有良事務局長ら代表がこのほど朝日新聞宮崎支局を訪れ、同連隊会は南京大虐殺とは無関係であったと表明した。中山事務局長によると、都城23連隊は12 年12月13日、南京城西南角から城内に入った。同事件について論議されることから、同連絡会員、関係者に対して調査を行ったが、事件に関係した証言などは得られなかったとしている。》

 いささか不本意ではあったが、ともかくもこの記事で、およそ半年におよぶ朝日と連隊会の抗争に終止符が打たれるかに見えた。
 ところが、同年の6月、7月、10月と、大阪・名古屋などに住む戦友から相次いで「連隊は無関係という記事は全国版の何月何日に載ったのか」との問い合わせが事務局に殺到した。
 全国版に載せると言った朝日が約束を破るはずはない。
 この種の記事は紙面の片隅に小さく載せるのが新聞社の常道だから、もう1度よく見て下さい、と照会のたびに事務局は回答していた。
 昭和60(1985)年12月20日、"お詫び"記事から半年たったところで、意外な事実が判明した。
 この日、中山事務局長は、朝日宮崎支局に中村支局長を訪ねた。
 事件の取材で宮崎に来ていた「世界日報」の鴨野守社会部記者を伴ってである。
 中山氏はさっそく、
 「例の無関係の件、全国版の何月何日に載ったのですか」と切り出す。
 ところが支局長は言った。

 「全国版?全国版には載せてありません」
 「載せていない?それじゃ約束が違います」
 「約束した覚えはありません」
 「冗談をおっしゃってはいけません。あの日、固く約束されたじゃないですか。」
 「いや、地方版に載せるとは言いましたが、全国版とは言いません」

 そして中村局長は、「あの記事はすべて正しい。朝日新聞宮崎版に載った記事は訂正記事ではない。連隊会から抗議があった旨を載せたまでだ」と、言い放ったのである。
 中山事務局長は、

 「今からでもよいから、全国版に載せてくれませんか」と食い下がったが、
 支局長は「いや、もうこれ以上の事は朝日としては出来ません」と一蹴した。
 やむなく中山事務局長は、次のように言い残して席を立った。

 「卑怯ですねあなたは。あの時私に、1人で来て下さいと言われた意味が今になってわかりました。約束をした、しないは、当事者だけでは押し問答になりますからね」

 朝日は都城23連隊との抗争はこうして再燃したのである。

虐殺写真はデッチあげ

 それから1週間ほどたった12月28日、朝日にとって極めて衝撃的なスクープが「世界日報」の一面トップを飾った。
 「朝日、こんどは写真悪用 南京大虐殺をねつ造」と題された記事によれば、中国人の首が転がっている例の写真、南京大虐殺の動かしがたい証拠であると朝日が大見得を切った写真は、旧満州の熱河省で撮影されたもの、と指摘されたのだ。(その後の報道で、この写真は昭和6(1931)年、当時の朝鮮で市販されていたもので、満州の凌源で中国軍が馬賊を捕らえて処刑したものと判明する)
 年が明けて昭和61(1986)年1月となると、様々なマスコミがデッチあげ写真の件で朝日攻撃を開始する。
 朝日は窮余の一策で、1月10日、中村支局長を更迭し、我々の攻撃目標から外してしまう。
 以後、窓口は西部本社の宮本隆偉通信次長となるのだが、これは全くもって責任のがれの、卑怯きわまりない人事と言わざるを得ない。
 1月22日、朝日の全国版に、「おわび」と題するベタ記事が掲載された。

 《59年8月5日付の「南京大虐殺、現場の心情 元従軍兵士の日記」に記事に対し、日記の筆者が所属していた都城歩兵23連隊の連隊会から「連隊は無関係」との表明があったため、改めて本社で調べた結果、日記は現存しますが、記事で触れている写真3枚については南京事件当時のものではないことがわかりました。記事のうち、写真に関する記述は、おわびして取り消します。》

 不可解なおわびではないか。
 読みようによっては、写真についてはミスだったが、日記は現存するのだ、と朝日が逆攻勢に出てきたと受け取れなくもない。
 朝日のそもそもの記事によれば、写真と日記は二進一体のものだったはずである。
 例の記事には、「写真はアルバム3枚残っていた。・・・・・・生前家族に「南京大虐殺の際の写真」とひそかに語っていたという。・・・・・・生前写真を見ては思い悩んでいる時もあったという」と書かれているのである。
 写真と日記には切り離せないものと考えるのが自然であり、それでもなお日記には信憑性があると強弁するのは、居直り強盗と同じたぐいではないか。
 それでも、一方の柱であった写真はデッチあげとわかった。
 残るは日記の信憑性である。
 すでに述べたように、中村支局長の弁によって、日記は河野美好氏のものではないとわかった以上、該当者は宇和田弥一氏以外な考えられない。
 どう調べても、他に該当者はいないのだ。
 連隊会では数度にわたって未亡人に接触したが、反応は思わしくなかった。
 未亡人は「朝日新聞は取っていませんし、朝日新聞社の方と会ったこともない」と繰り返し、ついには「主人の持っていた日記も写真も、昭和57(1982)年7月の洪水の折に納屋が土砂に埋まり、読めなくなったので焼却してしまった」と言い出す始末。
 終始一貫、朝日との接触を認めようとはしなかった。
 昭和61(1986)年1月25日、朝日新聞宮崎支局2階会議室において、連隊会と朝日西部本社との間で会談がもたれた。
 出席者は連隊会5人に対して、朝日側3名。
 この会談は、どこまでいっても平行線だった。
 「日記も嘘である。日記についての詫びがなされない限り、和解は出来ない」とする連隊会側に対して、朝日側は「写真についてのお詫びで終止符を打っていただきたい」と主張。
 「日記を白日のもとにさらせば解決する」と迫れば、「そうなったら日記提供者の氏名が判明して、本人に迷惑が掛かる」と取材源の秘匿を楯に応じようとしない。
 押し問答のすえ、「日記は見せられないが、ご指摘の箇所を読み上げることはできる」となり、連隊会側が指摘の部分を宮本次長が読み上げることになったのである。
 これは大きな収穫であった。
 宮本次長が読み上げた日時のうち、7月27日と12月10日の分が、先述した「都城歩兵23連隊戦記」に引用した宇和田日記の中の日時とたまたま一致し、その内容もほぼ同一であることがわかったのだ。
 朝日の所持している日記は宇和田弥一氏の日記に間違いはない。
 そして、読み上げられた日記の内容を細かく検討することによって、日記の信憑性に多大の疑問があることも分かってきた。
 例えば昭和12年7月27日の日記に、

 《午后3時、突如師団からの電報により動員下令。将校集合のラッパ。週番司令から各中隊週番士官に通達された》

 とあるが、一兵士の身で師団から電報がきたことがどうしてわかるのか。
 午後3時とあるが、その時刻には将校は全員在営中で(午後5時まで勤務)、連隊長が将校全員に直接命令を下すはずだ。
 週番司令は連隊長の帰営後に警備のために勤務するもので、動員令のような重大な命令を伝達する権限はない。
 また、11月3日から5日にかけての杭州湾上陸の状況も問題である。
 11月4日の日記にはこう書いてあるという。

 《・・・(不明)・・・の命により、軍は上海南方80里の・・・(不明)・・・地区に先ず第5師団をもって敵前上陸を敢行。F第一線を占領し・・・・・・》

 こういう事実を一兵卒がどうやって知り得たのだろうか。
 私の連隊は第6師団に属していたかなど、中隊長の私でさえ知る由もなかった。
 先述したように、私は昭和49年に歩兵23連隊の戦記編纂の責任者となり、その時初めて旧日本軍の公刊戦史を見て、第5師団が来ていたことを知ったのである。
 それを一上等兵が、しかも当日の日記に書くことなどあり得ない話ではないか。
 さらに、日記の中に「F」という言葉があるが、これは「敵」を意味し、将校たちが図上演習の際に用いる略語である。
 あとからテープを聞いてみると、読み上げた朝日の宮本次長も「これは何だろう」とひっかかりながら読んでいるし、聞いている連隊会もピンときていない。
 そんな用語が、なぜ上等兵の当時の日記に書いてあるのか。
 次に、翌11月5日の記述に、

 《金山衛城を占領との情報到る》

 とあるが、「金山衛城」なる地名が出てくるのはおかしい。
 この地名を知るには地図が必要だが、地図は中隊に1枚しかなく、わが中隊では私だけが所持していた。
 こうした不可解な記述は枚挙にいとまがない。
 特に問題の12月15日以降、虐殺の記述に至っては疑問だらけである。
 15日、2千名の中国人が逃げ場を失って現れたというが、その時の部隊配置と湖沼の多い特殊な地形を考え合わせると、水西門西方2.5キロの警備を突破しない限り、水西門付近に敵兵が現れることなどあり得ない。
 さらに決定的なことを言えば、宇和田氏の所属していた第1中隊は大隊主力とともに、12月22日には南京城内に移駐している。
 それなのに、当初の朝日記事によれば、21日以降、"虐殺"の日々が続き、28日には「人格の陶治とか何とか戦場こそこれがこの良き舞台だと喜んだ我だったが、いまの状況では全く何事かと思われる」などと書いているという。
 移駐してしまった部隊の兵士が、そこになお留まっているかのように記述しているのは全くおかしい。
 日記の筆者は誰なのだろう。
 一兵卒でも日記を書く者が皆無であったとは言えない。
 しかし、兵馬倥偬(へいまこうそう)の戦場の中にあって、一兵卒が1日も欠かさず日記をつけることなど、とうてい考えられない。
 宇和田氏と同じ中隊にいて南京作戦に参加した生存者も、彼が日記を持っていたり、つけたりしている姿を見たことも聞いたこともないと証言している。
 私は朝日の持っている宇和田日記は、当時その一部を空白のまま、メモとして書き残し、戦後、大幅に加筆されたものではないかと考える。
 しかもその内容から見て、かなりの軍事知識と情報を持つ者の指導を受けたのではないだろうか。
 最悪のケースを想定すれば、戦後、宇和田氏が昭和12年版の当用日記を持っているのを知った何者かが、これを借りるなり、譲り受けるなりして、空白の部分に勝手に書き込んだことだってあり得ないではない。
 とりわけ南京陥落以降の記述については、そういう疑問を私は抱いている。
 我々はすでに、宇和田氏本人の筆跡を手に入れていた。
 復員後、ある知人に宛てた達筆の手紙を入手していたのである。
 これと問題の日記の筆跡を照らし合わせれば、すべてが明らかになるだろう。
 仮に2つの筆跡が一致すれば、宇和田氏本人の日記となるが、その場合、記述の内容から見て、何者かが戦後に指導して書かせた公算が大きくなる。
 筆跡が一部でも違っていたら、特に南京以降の筆跡に違いがあれば、事は重大である。
 写真のデッチあげどころの騒ぎではない。
 何としても、日記を出さざるを得ない状況に朝日を追い込む必要がある。

朝日は筆跡鑑定を恐れた?

 昭和61年2月5日から10日にかけて、朝日側からしきりに和解嘆願の電話が入ったが、連隊会はこれを拒否、12日に西部本社へ和解拒否の文書を送りつけた。
 5月6日、闘いの舞台は宮崎から東京に移される。
 朝日の東京本社を相手取って訴訟を起こすため、東京の弁護士に依頼することも含めて、事件は東京在住の私に引き継がれたのである。
 6月12日には、弁護士を通じて朝日に最後通牒を出した。
 連隊に対する謝罪文を出せ、要求が受け入れられない場合は本裁判にかける、という通告書である。
 朝日側は、専務が海外出張中といった理由で引き延ばし戦術に出てきた。
 「6月いっぱいまで回答は待って欲しい」が「7月の10日頃まで」となり、7月9日にようやく双方の弁護士が顔を合わせることになる。
 この席で朝日側は、裁判にかけるならいつでも受けて立つ、と開き直ったのである。
 私の顔は日記のことでいっぱいだった。
 万が一にも日記が焼却されたりしたら、とりかえしがつかなくなる。
 本裁判よりも日記の保全が第1だと考えた私は、弁護士を通じて8月22日、小倉簡易裁判所に対して日記保全の申し立てを行った。
 舞台が小倉になったのは、西部本社が日記を所持していると言明していたからだ。
 判決が下されたのは、それから4ヶ月たった12月17日のことである。
 裁判所側はほぼ連隊会側の主張を認め、朝日は翌18日に西部本社で日記を見せろとの判決を下した。
 ただし、全文を見せる必要はない、一番問題なのは昭和12年の12月15日から28日までの記述だから、その間の日記だけをすべて写真に撮らせるよう言い渡しただけである。
 翌18日の朝は、今日こそ日記が見られる、しかも写真に撮れる、すべてが明るみに出る、という緊張でピリピリしていたが、そこへ弁護士から通報が入った。
 昨日の判決にあわてた朝日側が、守秘義務の配慮が万全でないとして、その日のうちに福岡地裁小倉支部に抗告したという。
 日記はどうあっても見せるわけにはいかないという朝日の執念が、素早い対応となって現われたのだ。
 朝日は結局のところ、筆跡の鑑定を極度に恐れたとしか思えない。
 私と弁護士はとりあえず西部本社に出向いたのだが、もちろん日記の撮影は中止となった。
 問題は地裁の判決がいつになるかだが、おそらく昭和62(1987)年の2月以降になるだろう。
 そして地裁で同様の判決が出たとしても、朝日はたぶん高裁に控訴する。
 時間稼ぎは朝日の最も望むところではないか。
 それでなくともわが連隊会の実情は、最高責任者たる坂元昵氏が88歳、最後の連隊長だった福田環氏が89歳、比較的若い私でも73歳という高齢である。
 これから先、何年続くかわからない裁判に、どれだけの会員が頑張り通せるか。
 実際、坂元氏は心労のあまり昨年暮れに入院し、私もまた酒の力を借りなければ眠れぬ夜が続いた。
 酔って寝ても、夜半に目がさめ、やがて睡眠薬を飲むようになっていた。
 高齢に加えて、金銭上の問題もあった。
 老後のための僅かな貯えをこれ以上会員たちに放出させるに忍びない。
 朝日は恐らく、露骨な引き延ばし戦術に出てくるだろう。
 本裁判となれば10年はかかるだろう。
 それまで我々の余命があるかどうか。
 あれやこれやを考え合わせると、今後の裁判闘争を闘い抜く見通しがたたない。
 私は一件の終息を考えざるを得なくなった。
 私は、その日のうちに朝日西部本社の幹部と話し合い、こう提案した。
 「これは今のところ私だけの判断だが、うちの連隊は南京事件に無関係であるという記事を全国版に載せてもらえないか。そうすれば、保全申し立てを取り下げてもいい」
 朝日側は、まるでこの提案を待っていたかのように、「それだったら応じてもよい。検討します」との返事であった。
 年が明け、今年(昭和62)の1月7日に私は鹿児島に飛んで、坂元氏の了承を得る。
 翌8日には連隊会に報告し、ここでも了承を得た。

もう一つの「戦史」

 昭和62(1987)1月21日、いよいよ福岡地裁に保全申し立ての取下書を提出することになった。
 手続きは当然こちらの弁護士が行うものだが、後から知ったことだが、おかしなことに朝日側の弁護士がわざわざ書類を取りに来て、自ら小倉まで運んでいき、22日に手続きをすませてしまったのである。
 一刻も早くこの問題を片づけたいという朝日の意見が、ありありとうかがえる一幕であった。
 そして翌23日の朝刊全国版には、「証拠保全を取り下げ、「南京大虐殺と無関係」、都城23連隊が表明」と見出しをつけた記事が早くも掲載された。

 《いわゆる「南京大虐殺」報道に関して、都城23連隊会(宮崎市)は朝日新聞社を相手に、当時の状況を記録した日記の保全の申し立てを小倉地裁に行っていたが、22日、申し立てを取り下げた。取り下げに当たり「連隊は南京虐殺とは無関係」と表明した。この問題は、朝日新聞が59年8月、日記の内容を報道したのに対し、連隊会側が「連隊として虐殺に関係したような印象を与えた」と反発していた》

 2年5ヶ月におよぶ闘いは終わった。
 決して上々の結果ではない。
 むしろ甚だ不本意な終戦である。
 しかし、だからといって、これで朝日がすべての責任から逃れたわけではない。
 連隊会が味わった苦痛もさることながら、この事件で一番苦しんだのは河野美好未亡人の吉江さんではなかったか。
 「49年に死亡」という誤報のせいで、吉江さんは村人から白眼視され、老いた身で働く職場でも肩身の狭い思いをしていると聞く。
 言論の自由の美名の陰で、こうした精神的苦痛をなめるひとがいることを忘れてはなるまい。
 問題の日記は永久に陽の目を見ることはないだろう。
 しかし、朝日新聞が連隊会の投げかけた疑問に何一つ答えられなかったという事実も、また永久の残る。
 連隊会はこの4月、宮崎で慰霊祭を開き、護国神社で英霊に対し事件の解決を報告し、あわせてその経緯を克明に記した前記「連隊会だより」を刊行する。
 それはわれら都城歩兵23連隊の、もう1つの「戦史」となるであろう。

↑↑↑↑

何?これ?

新種のいやがらせ!

ウィキペディア等で暗躍する「虐殺派」

(以下転載)
ウィキペディア(うぃきぺでぃあ)とはネット百科事典のことです。誰でも記事を投稿したり編集したりすることができますが、偏見をさけ中立的な記述をするのが基本方針ということです。
 
 最近になって、歴史関係で検索するとウィキペディアのページに遭遇することが多くなりました。ページでは日時ほか事件の概要も説明されているので、簡単な調べものをするには非常に便利になったと思います。いまのところヤフーで「南京大虐殺」を検索すると、ウィキペディアのページがかなり上位に来ます。

 そのウィキペディアの「南京大虐殺論争」というページを見て思わず笑ってしまいました。とてつもないデタラメが書かれているからです。念の為画像で紹介します。2004年11月11日現在は「保護中(書き換え不可)」となっていますが、後に記述が変更になる可能性もあります。

 『否定説はほとんどの歴史家の間では受け入れられる傾向はない(略)「なぜ大衆が非学術的は言述を信用するのか」という研究の対象となっている。』だそうです。正直驚きました。私も南京関連の研究書籍は一通り目を通していますが、さすがの『虐殺派』
研究者もここまでは言いません(笑

 肯定説というのは日本国内だと十数万規模以上です。数万規模の市民の虐殺があったという立場になります(虐殺派の代表的研究者である笠原教授の見積もりは軍人8万、民間人5―6万。20万規模もありえるとしている)。

 肯定説からから見た「否定説」とは、中間派(3万―6万)も含まれますが、そもそもスマイス調査など、当時南京にいた外国人が記述した一次資料に示された事件規模は「軍民合わせて約4万」ですから、これが「非学術的」であるということはありえないわけです。中
間説とまぼろし説の大きな差は国際法の解釈です。法解釈と歴史的事件の規模は別の問題です。「事件の規模」については「まぼろし説」も「中間説」もそんなに変わりませんから、まぼろし説がトンデモということもありえません。

 中間説から国際法の解釈により合法殺害を引いていくと、1-2万説、あるいは「まぼろし説」(一万人以下説)となるわけです。まぼろし説は「便衣兵や投降兵の殺害はあったが、それは戦闘行為の延長であって虐殺であるとは言えない。兵士個人の犯罪はあったが、組織的な虐殺ではない」として合法殺害の幅を広く考えているだけですから、非論理的な説とは言えません。これを非学術的として研究対象にしている社会学や心理学の研究者がいるとすればそれは「無知」なだけです(笑

ウィキペディアではページの上部にある「ノート」と呼ばれる部分をクリックすると、記述に内容に関するコメントをつけることができます。そこでの議論をみると驚愕の事実が判明します。ちょっと引用してみます。赤枠が問題の記述をした「Tobey」という方になります。

<<<<
私は、学会の動向を示す具体的な資料を持ち合わせているわけではないので、あくまでも一般論を述べさせていただきますが、日本の学会の主な傾向が、例えば辞書や教科書等の記述に反映すると考えるならば、やはり、否定説に関しては「受け入れられる傾向はない」と考えられます。具体的にいうと、河出書房新社『日本歴史大辞典』などは、歴史辞典として有名だと思いますが、やはり、否定説を載せることはありません。ただし、この場合はあくまでも「学会」の動向・傾向ですので、「歴史家の間」というよりは、「歴史学者の間」というべきだと思います。この方向で修正するべきではないでしょうか?--Tobey 2004年11月5日 (金) 12:35 (UTC)
<<<<

要するに「学会の反応」なるものは、「Tobey」というハンドルネームの方が、主観的に分析したものであって、なんら根拠がないものと言えます。言ってしまえば捏造ですね。これを修正しようにも、管理側が記述を「保護」していますから、編集も修正もできない状態となっています。該当部分以外にもいくつか間違いがありますがこれも修正不可能な状態のようです。



戦勝国は日本

支那豚さん、
おもしろいブログがありますよ。

安濃豊さんの「戦勝国は日本だった」ブログです。
一度読んでみては如何でしょう。支那豚さんと一致できる記述がたくさんあります。

No title

>>とら氏
貴重な関連記事(私個人で検索していては大変な時間を消費しますので)、知らない事が多かったので参考に致します。ここでは支那豚氏だけが読者では無く、多くの訪問者がコメント記事に目を通しています。

しつこいので最後にします

以前に知ったサイトですが下記も参考になると思います。
「脱 ・ 洗脳史講座」
http://home.att.ne.jp/blue/gendai-shi/mokuji.html

このような参考サイトは数多く存在すると思います。
何年も前に松岡という小学校教員がなぜだか何人かの証言者をひきつれて南京事件を断罪しはじめたというのは
記憶に残っています。そのときネットで見つけたサイトです。

http://www.marino.ne.jp/~rendaico/daitoasenso/taigaishinryaku_nankinziken_shiryonozusan.htm

批判されている方は専門家かどうか
わかりませんが、こういうことは本来日本の名誉のため専門家や政治家や政府がやることではないでしょうか。日々自分の生活のために一生懸命生きている一般大衆に手がおえることではありません。
戦前の日本はすべて悪うございましたと言うしか能が無いので、やる能力も気力も無いのだろうか・・。

以上、たまたま余裕の時間があったので、べたべたと無節操に貼り付けて失礼しました。本来これらの出所を書くべきなのに、
ほとんど出所を記録していなかったので、出所なしに転載するというルール違反をしてしまいました。

どれもネットで過去に見つけて保存した文章ですが、私は歴史専門家ではないただのサラリーマンなのに、その私が危機感をもってこんなに
南京問題の記事を狂ったように貼り付けをしなければならないということが日本の悲しい現状をあらわしていると思います。
とにかく日本の学者は全体的に質が低くてまったく頼りにならない。逆に悪意のある学者はそれこそ国内に無数にいる。
政治家にも優秀な人はいるが総体として役に立たない。メディアも良い記者はいるが絶対数が少ないという感じです。

日本国内にいる確信的反日左翼、なんとなくそう思い込まされている左翼は、いまだに相当な勢力を持っています。特にネットなど見ない、またはネットショッピングしかしないという60代以上の高齢者はほとんどかつての朝日新聞の論調をそのまま信じこんでいます。むかしは全国に数多くある地方新聞も朝日新聞の狂った論調をほとんどそのまま受け継いでいたので都会も地方も変わりません。反日系の教員や記者はいまだに率先して活動をしています。
日本人はお人好しとよく言われますが、あれほど長年に渡って日本を貶めた(おとしめた)朝日新聞を、なぜいまだに多くの日本人が購読しているのか、ほんとうに不思議で不思議でなりません。また悔しくて悔しくてたまりません。

「南京大虐殺」は無いという日本人は少しは増えてきましたが、その良識的日本人の多くは日本軍の戦争犯罪すべてを否定しているわけでなく、また中国にまったく謝罪する必要はないと考えているわけでもなく、整理しているとおそらくは次の2点を主張しているに過ぎないと思われます。

・日本人はナチスがユダヤ人にやったようなホロコースト、つまり何万人もの民間人を無差別に残虐極まりない方法で組織的に抹殺するようなことは断じてやっていない。

・中国は中国政府が過去に行なってきた中国人や少数民族への虐殺や悪行を隠蔽するために南京大虐殺をことさらに宣伝し利用している。

各地で偶発的、散発的にあったと考えられる戦争犯罪、例えばゲリラ狩りと称して無実の村民を殺したり私怨や復讐のためたまたま出会った中国人を殺すなどを虐殺と呼ぶのなら、元将校の奥宮正武氏などが証言しているように日本軍でもあったと考えられるが、それならベトナム戦争で数多くあった村民虐殺ーアメリカ兵も証言している-もベトナム大虐殺と呼ぶべきであり、ひいてはイラクやアフガニスタンでの民間人攻撃も虐殺と呼ぶべきである。だが、そうするとナチスやポルポトなど真のホロコーストの際立った悪魔性がぼかされてしまうので、すべきではないと考えます。 
ホロコーストをいうなら一瞬で何万人もの市民を虐殺した米国の原爆投下こそ、それに当たるのではないでしょうか。米国は原爆を正当化するために南京大虐殺という神話が必要だったのです。そしてノーベル平和賞を過去に受賞したデンマーク人が最近、米国の原爆投下をホロコーストと呼んだように、現在でもそのような批判をかわすため米国にとってこの神話は必要なのです。
日本国内の左翼で少々悪知恵のある連中は、南京虐殺を否定する日本人を、ナチを否定するドイツ人にたとえ「歴史修正主義者」と呼んでバカにして歴史を反省することのできない不愚者と決め付けています。そして哲学者はそれを哲学的に分析すると称して独自の訳のわからない哲学を構築したり、歴史学者は南京虐殺否定派の細かな史実の間違いを挙げて知的不良者と決め付けています。朝日新聞が慰安婦何万人もの強制連行がなかったとわかった後でも、慰安婦問題はあったと開き直り、世界中に油をばらまき火をつけて、デマを広げたように、南京大虐殺も多くの反日日本人が関わっています。でなければ江沢民時代のすさまじいな反日教育が実現できたわけがないのです。その波紋はいまだに大きく、この数十年に中国人の積もり積もった怨念は並大抵ではありませんが、うんざりするほど反日活動を励行した左翼どもは、それもすべて南京虐殺を否定する日本人がいるからだと強弁して、自分たちは正しいことをした責任は一切ないと開き直っています。

こうしたらどうでしょう

そんなことはなかったと言う人も
必ず『南京大虐殺』はなかったと言います。
なかったことを言うために、なかったことを言わなければなりません。

そこで、これからはあの架空の事件を
『南京大捏造』と呼ぶのはいかがでしょう。
あ、あのシナとアメリカが結託して
日本を悪者にしておきたい事件のことですね。
あれは正しくは『南京大捏造』と言います、と。

早くくたばれ浅卑

支那豚さん毎回楽しみに読ませていただいてます。貴重な情報や意見をありがとうございます。
とら氏ほか各氏も、貴重な資料をありがとうございます。大変参考になりました。

浅卑新聞←ほんとヘドが出ます。なんとか叩き潰す方法はないでしょうかねえ。購読数が減って大赤字になっても(実際大赤字とか)、シナ・左翼が資金援助するからつぶれないんだろうね。

子供のころ家で浅卑新聞をとっていておやじが社会党支持していた。(本人は気付いていないと思われるが)視野の狭い技術屋で家族みなから馬鹿にされていたので影響力はほとんどなかったが、浅卑のせいか時代のせいか左翼的な雰囲気は少しは家の中に入り込んでいた。

大人になってからも習慣で浅卑を読んでいたが、40過ぎてから読まなくなり読売や日経を経て今は新聞はもうやめた。テレビもほとんど見ない。反日メディアが多すぎて。インターネットで十分情報が得られるし。

ほとんどのメディアはシナに20%くらい株式を握られているそうな。だからシナの悪口は書けない言えないよな。NHKは社屋内に中国中央電子台が入っている(笑)。

おやじは棺桶に片足突っ込む歳だけどいまだに浅卑一筋(最近実家へ帰ってないから定かではないが頑固者だからおそらく)。
その多くが左翼が進歩的と勘違いした世代(団塊世代以上でしょうか?)が寿命が来るまで浅卑をとり続け、メディや政財界の上層部にも生き残っている。


"The Fake of Nanking Massacre" でYoutubeでいろいろ見れます。
シナと米のプロパガンダ以外の何物でもありません。まさに「南京大捏造」

No title

>>「南京大捏造」

http://blog.goo.ne.jp/2005tora/e/47c60ccf71a50535e2e1af0d87b58638 最後の投稿コメント部で、

『週刊新潮』 ’06年6月29日号 日本ルネッサンス 第220回

カナダ・トロント在住の日本人の方から憂慮すべき手紙を受け取った。カナダで反日教育が進行中で、背後に中国共産党の情報宣伝活動があるというのだ。寄せられた情報はざっと以下のとおりだ。「第二次大戦アジア史保存連盟」(通称ALPHA)という団体が企画して、カナダのオンタリオ州の歴史、社会科の教員24名を2004年夏、上海、南京等各都市に送り込み、研修を行った。費用はALPHAが負担、現地での研修及び旅行日程の概要もALPHAが決定した。---------。つまり、世界規模でこの種の勢力が猛威を増長してるのに反撃はしてないのでしょうか。

空きカン粉砕☆センダニ退治

■ウイグル・チベットの悲劇、天安門の悲劇は必ず繰り返されます。次の標的は日本です。
特亜のスパイに政府を乗っ取られ、マスゴミが特亜の宣伝屋になってしまったいま、
街に出て自分で声を上げるしかありません。
【東京都渋谷区】 12.18(土)
「民主党(菅)内閣」打倒!皇室冒涜糾弾!中国の尖閣諸島侵略阻止!国民大行動 in 渋谷 (12/18)
期日:平成22年12月18日(土)10時頃からやるんだね!
集合場所:代々木公園 けやき並木

    ∧__∧
    ( *´∀)  今年の厄落しだ!
   .ノ^ yヽ、
   ヽ,,ノ==l ノ
    /  l |
"""~""""""~"""~"""~"

【センダニ駆除】 先進国から技術を盗み違法コピー商品をバラ撒き
小数民族を殺しまくり資源と文化と領土を奪い肥え太った
奴隷商中国共産党が仕切る中国ってこんな国ヽ(´ー`)ノ
http://www.youtube.com/watch?v=hTKNENM2WoQ
http://www.youtube.com/watch?v=Ch7Xdm5isS4
http://www.youtube.com/watch?v=DVoId7oRMWc
http://www.youtube.com/watch?v=PLABnHbNqX4
http://www.youtube.com/watch?v=cgLx9GkYGS4

No title

反日チョウニチ新聞 整理解雇はまだか?

新聞記者は、その高給もあって花形職業だった。それもいまや昔だ。 朝日新聞では今年9月末、68人が希望退職で社を去った。 このうち編集部門は23人。デスクや編集局長補佐経験者もいた。 ある朝日OBは解説する。「中国報道が重要視されているのに、中国特派員を2度経験した朝日で 中国語が一番うまい記者も退社しました。彼は非常に個性が豊かでしたが、 そうした人材を使いこなせる風土が会社の中になくなった」 朝日にとって経営悪化による希望退職者の募集は事実上初めてだ。 100人程度を募集したい考えらしく、来年3月末までに追加の募集もある、と。 ----http://gendai.ismedia.jp/articles/-/1595?page=2

黙ってはいられない

12月12日は、日本が世界に誇る映画監督、小津安二郎の誕生日にして御命日でした。
何を隠そう小津監督は、シナ事変が勃発するや「義勇公ニ奉ジ」一下士官として戦場に赴きました。
そして昭和13年の新年を同僚の山中貞夫監督とともに「南京」で迎えました。
惜しくも、山中監督はその年、ショウカイセキが卑劣にも黄河堤防を決壊させたため
住民保護のための復旧作業の無理がたたって発病。
28歳の若さで戦病死され、靖国神社にまつられておられます。
南京云々で反日言動を続ける世界の映画人諸君。
小津や山中が大虐殺をしたとでも言うのか?

No title

この記事読んで繰り返し不思議に思うのは、シナが酷いのとシナ人がバカなのはよーく分かりますた。でも、管理人さんがシナ人であるとしてどこでそんなまともな神経とか歴史観とか身につけたの?又、どうやって身につけられたの?まとも過ぎる!。
プロフィール

支那豚の楽園

Author:支那豚の楽園
洗脳されてなかった一匹の支那豚、かつて支那共産主義青年団に加入した経歴があるけれど、今は立派な反共戦士。私の主張は支那人およびアジア人は日本人から頂いた様々な恩恵に感謝しなければならない。
真実はここへ

当ブログは、世界中の政党、政治団体、宗教団体、国家機関等とはまったく関係がない、ご了承ください

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
FC2カウンター
FC2カウンター
現在の閲覧者数:
天気予報

-天気予報コム- -FC2-
おすすめの本
やまと新聞

支那豚の楽園のtwitter
pigzhinaをフォローしましょう
日本語→英語自動翻訳【星条旗】
English English得袋.com
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
MADE IN JAPAN 商品紹介
 
 
 
 
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。